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略伝自由の哲学第九章c-3

 この回は九の章の三十の段からです。

 

 あまねき行いの規範を擁する人は、右に述べるところに対して、たとえばこうも言うかもしれない。どの人も、みずからを生ききらせ、みずからにとって好ましいことをしようとするだけであれば、善い振る舞いと犯罪との違いはなくなる。わたしのうちに潜むよこしまさは、いずれであれ、あまねき善に仕える悟りと同じく、生ききることを求める。行う人としてのわたしにとって要でありうるのは、振る舞いをイデーに沿って目に据えていることではなく、振る舞いが善いか悪いかを吟味することである。善い振る舞いであればこそ、わたしはなしとげるであろう。

 

 規範が是とされるのは、おおむね次のような思いからではないでしょうか。それぞれの人がそれぞれの思いのままに振る舞うだけであれば、善い行いも悪い行いも同じくまかりとおることになる。そもそも、善き思いも、悪しき思いも、みずからをそそることでは同じである。その善し悪しを分かつのは、分別により吟味することをもってである。その吟味のためには、あまねく当てはまり、だれしもが守るべき規範が欠かせない。(「生ききらせる」に当たるのはauslebenlassenであり、aus〈残りなく〉leben〈生きるに〉lassen〈任せる〉というつくりで、いわば「自由放任」の意です。「犯罪」に当たるのはVerbrechenであり、Ver〈手を加えて〉brechen〈壊す〉というつくりです。)

 そして、三十二の段が、こう続きます。

 

 その、もっともではあるが、ここに言うところを知りそこねてこそ出てくるものいいに対して、わたしの答えは、こうである。人の欲するを知ろうとする人は、その欲するをそれなりの程にまで育む道と、その欲するがその目指すところに近づくにおいて取るありようとを、きっと、分かつことになる。その目指すところへの道のうえでは、規範のかずかずが、ふさわしい役を演じる。その目指すところは、まぎれのない悟りにおいてつかまれた行いの目指すところを現実に仕立てることである。人がそうした目指すところに至るのは、世の、悟りであり、イデーである中身へと、みずからを高める力をもつ程に応じてである。いちいちの欲するにおいては、おおむね、弾みやモチーフの他のものが、そうした目指すところに混じっていよう。しかし、悟られたところは、人の欲するのうちに、なおかつ、定めつつ、もしくは、ともに定めつつでありうる。人のするべきことを、人がする。するべきことがすることとなる現場を、人がさしだす。みずからの振る舞いは、人が、それとして、その人から湧きくるに任せることである。その意気込みは、まったくひとりなりの意気込みでありうるのみである。そして、まこと、悟りから湧きくる欲しての振る舞いこそが、ひとりなりの欲しての振る舞いでありうる。犯罪ということ、同じ意味での悪ということを、まぎれのない悟りを具体に仕立てることと同じく、ひとりなりであることの生ききらせと呼ぶことができるのは、闇雲のもよおしを、人のひとりなりであることのうちに数えればこそである。しかし、犯罪へと駆り立てる闇雲のもよおしは、悟られたところから来るのでもなければ、人のひとりなりのところに属するのでもなくて、人のうちの、いたってあまねきところ、ありとあらゆるひとりにおいて同じほどにものをいうところに属するのであり、人は、そこから、みずからを、ひとりなりのところによって引き抜く。わたしのうちのひとりなりのところは、それなりのもよおしや情の伴う、わたしの器官のなりたちではなく、その器官のなりたちのうちに照り輝く、みずからのイデーの世である。わたしのもよおし、本能、受苦は、わたしのうちにおいて、ひとえに、わたしが人というあまねき種に属することを証し立てるきりであり、イデーであるところがそのもよおし、受苦、情のうちに、ことさらな趣で生ききることが、わたしのひとりなりであることを証し立てる。わたしの本能、もよおしによって、わたしは十把一絡げの人であり、イデーのことさらなかたちによって、わたしはひとりの人であり、つまり、そのことさらなかたちのイデーによって、わたしが、みずからを、その十把一絡げのうちにおいて、〈わたし〉としてきわだたせる。わたしの獣としての自然の違いに沿って、わたしを他の人と区別するのは、わたしにとってよそよそしいものにしてであろうが、わたしの考えるによって、言い換えれば、イデーとしてわたしの器官のなりたちのうちに生ききるところをアクテイブにとらえるによって、わたしは、わたしみずからを、他の人と区別する。すなわち、犯罪者の振る舞いについて、その振る舞いがイデーから発するとは言えない。はたして、犯罪者の振る舞いならではのところは、その振る舞いが、人の、イデーの他の元手から出てくることである。

 

 くりかえし、一の文から見ていきます。

 

 その、もっともではあるが、ここに言うところを知りそこねてこそ出てくるものいいに対して、わたしの答えは、こうである。

 

 先にあげた、あまねき行いの規範を擁する人の言い分は、それなりに筋がとおっていますが、ここにいう悟りからの振る舞いに対するものいいとしては、お門違いです。そのことを次に詳しく見ていくことになります。(「もっともである」に当たるのはnaheliegendであり、nahe〈近くに〉liegend〈横たわる〉というつくりで、「手近な、まっさきに明らかになる」といった意です。)

 二の文です。

 

 人の欲するを知ろうとする人は、その欲するをそれなりの程にまで育む道と、その欲するがその目指すところに近づくにおいて取るありようとを、きっと、分かつことになる。

 

 たとえばですが、自転車に乗るということを例にします。はじめて乗ろうとするときの欲すると、いよいよ乗ることができたときの欲するは、ありようが異なります。はじめて乗ろうとするときの欲するは、いわば乗れるようになろう、乗ることを習おうとの欲するであり、いよいよ乗れるようになったときの欲するは、いわば乗りつづけ、乗りこなそうとの欲するです。そして、さらに乗りつづけるうちには、乗りこなそうとの欲するが、いわば身につき、板についてきて、いわば自ずから明らかな欲するとなり、欲していることそのことが、ほとんど忘れられているまでになります。が、それでも、しつかり乗りこなしているのは、やはり、乗りこなそうと欲しているからに他なりません。そのとおり、自転車に乗るということにおいても、欲するは、乗るというアクションによって、だんだんに育まれつつ、目指すところに適ったかたちを取るようになっていきます。

 三の文です。

 

 その目指すところへの道のうえでは、規範のかずかずが、ふさわしい役を演じる。

 

 はじめて乗るところから乗りこなすまで、すなわち欲するが育まれる道のうえでは、たとえば手の力を抜いてとか、背筋を起こしてとか、曲がるときには、からだを倒すようにとか、暗くなったから、もうやめなさいといった、さまざまなアドバイスや諌めに従うことが、それなりに有益です。そしてそのアドバイスや諌めも、あるいはまたマニュアルも、振る舞いを律するものとして、外からさしだされることにおいては、規範と変わりがありません。

 四の文です。

 

 その目指すところは、まぎれのない悟りにおいてつかまれた行いの目指すところを現実に仕立てることである。

 

 乗ろうと欲するが目指すところは、アドバイスや諌めに従うことではなくて、乗ること、乗りこなすことを、こととして仕立てることです。

 五の文です。

 

 人がそうした目指すところに至るのは、世の、悟りであり、イデーである中身へと、みずからを高める力をもつ程に応じてである。

 

 まずは、乗るというイデーを悟って、乗ろうとします。が、うまく乗れません。みずからのどこかしらが、乗るというイデーの外にあります。しかし、転びながらも、めげずに繰り返し試すなかで、だんだんに、なにがしかの手がかりがつかまれていきます。そして、いつしか、ついに乗れるようになります。まさにその時のことは、なんと言い表わせばいいでしょうか。あ、あ、あ、あっと危うげでも、どうにか乗れています。わたしが、おぼつかなくとも、みずからで、乗るということをしています。大地の上、青空の下、サドルに腰をおろし、ハンドルを握り、ペダルを踏み、風をきって、なんとか走っています。みずからが、まがりなりにも、まるごと、乗るというイデーの内にあります。そして、次の日も乗り、また次の日も乗りながら、これだ、これだと、乗っていることが確かめられてゆきます。

 さて、六の文です。

 

 いちいちの欲するにおいては、おおむね、弾みやモチーフの他のものが、そうした目指すところに混じっていよう。

 

 乗れるようになろう、乗ることを習おうとの欲するには、憧れや願い、恐れや怯み、もどかしさや悔しさが伴いもします。また、乗れてから、乗りこなそうとの欲するには、向上心や達成感、過信や虚栄や向う見ずさが加わりもします。

 七の文です。

 

 しかし、悟られたところは、人の欲するのうちに、なおかつ、定めつつ、もしくは、ともに定めつつでありうる。

 

 そもそも、乗ろうと欲するは、乗ることの悟りから定まりますし、そのことは、そこにもろもろが混じろうと、どこまでも変わりません。

 八の文です。

 

 人のするべきことを、人がする。するべきことがすることとなる現場を、人がさしだす。みずからの振る舞いは、人が、それとして、その人から湧きくるに任せることである。

 

 前の回で見てとったとおり、規範を是として振る舞う人は、まさにその人の振る舞いをするのではなく、外からさしだされる考えの律するまま、強いるままを、執り行うまでであり、みずからを、その考えが現実のこととなる場に仕立てるだけです。かたや、まさにその人のする振る舞いは、まさにその人の悟りから湧き来たり、まさにその人が引き受け、まさにその人が愛しつつ、まさにその人が現実に仕立てることです。(「さしだす」に当たるのはabgebenであり、ab〈離して〉geben〈与える〉というつくりで、「引き渡す、譲り渡す」といった意です。なお「現場Schauplatz」については、ことに4-a-3の回を見てください。)

 九の文です。

 

 その意気込みは、まったくひとりなりの意気込みでありうるのみである。

 

 まさにその人から湧き来る意気込みは、まさにその人の意気込みであって、そのほかではありえません。つまり、規範のように外からいただくこともできなければ、他の人にそのままもってもらうわけにもまいりません。

 十の文です。

 

 そして、まこと、悟りから湧きくる欲しての振る舞いこそが、ひとりなりの欲しての振る舞いでありうる。

 

 まさにその人が欲してすることでありうるのは、まさにその人の悟りから発することであり、そのほかではありません。そして、そのことを、次に見ていくことになります。

 すなわち、十の文です。

 

 犯罪ということ、同じ意味での悪ということを、まぎれのない悟りを具体に仕立てることと同じく、ひとりなりであることの生ききらせと呼ぶことができるのは、闇雲のもよおしを、人のひとりなりであることのうちに数えればこそである。

 

 人が自転車に乗るのは、そもそもにおいて、その人が乗ることを悟って欲するからです。しかし、人が自転車を盗むのは、どうでしょうか。その人が盗むことを悟って欲するからでしょうか。「盗人にも三分の理」といいますが、なぜ盗むのか、その理はなんであれ「三分」であり、残りの「七分」は闇の中です。いくら辿ってみても、その「三分」の理から盗むことの悟りへと、ひとつづきに通じる道は見いだせません。(「具体に仕立てる」に当たるのはverkörpernでありver〈手を加えて〉körpern〈体をなさせる〉というつくりで、「具体化、受肉化」といった意です。)

 自転車に乗るのも、自転車を盗むのも、同じく人のすることですが、乗るは、乗ることの隈なく見通しのきく悟りからであり、盗むは、盗むことの悟りからではなく、見通しのきかないなにかにそそられたり、促されたり、駆り立てられたりしてです。しかし、盗むことの悟りからは、きっと、盗む気が殺がれるか、盗んだことへの悔いが生じるかです。

 すなわち、盗むを、乗ると同じく思いのままの振る舞いと呼ぶのは、思いのままのうちに見通しのきかないなにかをも数え入れればこそです。なるほど、思いは、その人その人のものであるとともに、見通しのきかないなにか、言い換えれば、人のものではあっても、その人のものではないもやもやも混じっているものです。しかし、その人のものと、その人のものではないものとは、ほかでもなく悟るによって明らかになります。すなわち、見通しのきく思いのままと、見通しのきかない思いのままは、まさにその人が分かとうとすれば、きっぱりと分かつことができます。

 十二の文の文です。

 

 しかし、犯罪へと駆り立てる闇雲のもよおしは、悟られたところから来るのでもなければ、人のひとりなりのところに属するのでもなくて、人のうちの、いたってあまねきところ、ありとあらゆるひとりにおいて同じほどにものをいうところに属するのであり、人は、そこから、みずからを、ひとりなりのところによって引き抜く。

 

 そもそも、わたしがわたしであることは、わたしにとっていたって明らかなことであり、わたしの悟りのほかではありません。同じく、人がその人であることは、その人にとっていたって明らかなことであり、その人の悟りのほかではありません。(なお、それについては、ことに6-aおよび6-dの回を見てください。)

 人のうちの、その人にとって明らかならざるところは、その人の悟りから来るのでなく、人がその人であることのうちにあるのでもなくて、人そのもののうちにあります。

 そして、人は、その人であることによって、つまりはその人の悟りによって、人のうちの明らかならざるなにかのそそり、促し、駆り立てを殺ぎ落とします。ついでに、思いを、善き思いと、よこしまな思いに分かつのは、いわゆる分別(悟性)によってであり、かつ、なんらかの規範に鑑みつつです。しかし、それによっては、いうところのそそり、促し、駆り立てを抑えることはできても、殺ぎ落とすことはできません。(「引き抜く」に当たるのはheraus arbeitenであり、arbeiten〈働いて〉heraus〈取り出す〉という言い回しです。なお「分別Verstand」については、ことに前の回を見てください。)

 さらについでに、もう一言つけくわえます。分別にかまけることによって、悟りが、いわば遠のき、見落とされ、まさにその人のすることがストップします。それは、自転車に乗るための教えをいくら聞かされても、とにもかくにも乗ろうとしなければ、いつまでたっても乗れるようにはならないことと同じです。

 十三の文の文です。

 

 わたしのうちのひとりなりのところは、それなりのもよおしや情の伴う、わたしの器官のなりたちではなく、その器官のなりたちのうちに照り輝く、みずからのイデーの世である。

 

 人のうちのその人たるところ、または、わたしのうちのわたしなりのところは、からだでもなく、こころでもなく、からだとこころに重なる、明らかな考えのまるごとです。はたして、自転車に乗ろうと、はじめて欲したときから、その人の輝きはいかばかりでしょうか。まして、はじめて乗れたときの輝かしさは。・・・(「照り輝く」に当たるのはaufleuchtenでありauf〈上へと、起こりつつ〉leuchten〈光る、輝く、照らす、きらめく〉というつくりです。なお「器官のなりたちOrganismus」については、ことに4-a-1の回を見てください。)

 十四の文の文です。

 

 わたしのもよおし、本能、受苦は、わたしのうちにおいて、ひとえに、わたしが人というあまねき種に属することを証し立てるきりであり、イデーであるところが、そのもよおし、受苦、情のうちに、ことさらな趣で生ききることが、わたしのひとりなりであることを証し立てる。

 

 わたしのからだに具わる本能、生命の織りなし、こころの動きは、わたしがヒトに属することの証しであり、支えであり、考えが、からだに具わる本能、生命の織りなし、こころの動きにおいて、かけがえのないありようで生きることが、わたしであることの証しであり、支えです。(「受苦」に当たるのはLeidenschaftであり、Leiden〈被る、罹る〉schaftくこと〉というつくりで、「情慾、煩悩、激情」といった意です。すなわち、闇雲のもよおしや情は、わたしたちをそそり、促し、駆り立てるばかりか、それを被るわたしたちを、責め、苛み、激させもします。たとえば、妬み、嫉み、疑いなどがそれです。「証し立てる」に当たるのはbegrundenであり、be〈まさに〉grunden〈基づかせる〉というつくりで、「基礎づける、証明する、設立する、確実な地位を与える」といった意です。)

 十五の文の文です。

 

 わたしの本能、もよおしによって、わたしは十把一絡げの人であり、イデーのことさらなかたちによって、わたしはひとりの人であり、つまり、そのことさらなかたちのイデーによって、わたしが、みずからを、その十把一絡げのうちにおいて、〈わたし〉としてきわだたせる。

 

 人がまさにその人として輝くのは、まさにその人のする働き、考えるによってです。または、こうも言うことができるでしょう。人の〈わたし〉、もしくは人の個性は、遺伝によって与えられるのでもなく、環境によってつくられるのでもなくて、人が、遺伝や環境に応じつつ、悟りから稼ぐことによって身につき、板についた考えのことさらなかたちのうちにあります。そのことさらさは、まさにその人によることさらさです。(「十把一絡げ」に当たるのはDutzendであり、ラテン語duodecim〈十二〉から来て、「一ダース」の意です。なお「きわだたせるbezeichnen」については、ことに8-aの回を見てください。もっとも、そこでは同じ原語に同じ訳語の原則が貫けなくて、「称する」と訳してありますが、ごめんなさい。)

 さて、十六の文の文です

 

 わたしの獣としての自然の違いに沿って、わたしを他の人と区別するのは、わたしにとってよそよそしいものにしてであろうが、わたしの考えるによって、言い換えれば、イデーとしてわたしの器官のなりたちのうちに生ききるところをアクティブにとらえるによって、わたしは、わたしみずからを、他の人と区別する。

 

 わたしと他の人を、からだの特徴だけで区別する人がいたら、おそらく、その人とは通り一遍のつきあいをするまででしょう。わたしが、わたしと他の人を区別するのは、わたしのからだに重なって生きる考えを、わたしのする働き、つかむによって、しっかりつかみつつです。(「つかむ」に当たるのはerfassenであり、fassen〈つかみ〉er〈おおせる〉というつくりで、「把握する、包括する、理解する」といった意です。なお「fassenつかむ」については、ことに3-bの回を見てください。)

 十七の文です。

 

 すなわち、犯罪者の振る舞いについて、その振る舞いがイデーから発するとは言えない。

 

 ここまでに見てきたとおり、盗むという振る舞いは、イデーから、もしくは見通しから発するのではありません。

 十八の文の文です。

 

 はたして、犯罪者の振る舞いならではのところは、その振る舞いが、人の、イデーの他の元手から出てくることである。

 

 盗むという振る舞いは、情、もよおし、本能から発します。言い換えればまるごとは見通しのきかない、人の生きるの元手から発します。そして、そのことが、犯罪という犯罪について、言い換えれば、人が闇雲に手を加えて壊すことのすべてについて言えます。そして、獣には、本能、もよおし、情があっても、犯罪はありません。

 さて、この回のお終いには、ミヒャエラ・グレッグラー『両親の問診時間』から、こういう一節を引きます。「いじめ」や教育基本法についての、悲しくも喧しいニュースを日ごと耳にするおりから、静かでも、大いに力となることです。読んでみてください。

 

 冬のことです。子どもたちが校庭で遊んでいます。いく人かがこっそり抜け出していって、ある家の開いていた窓に雪を投げ込みました。ひとりの先生が通りがかりに、それを見つけて叱り、子どもたち(五年生です)の良心に訴えて、こう言いました。「どうして抜け出してきたんだ。ただじゃすまないからな。まったく、とんでもない。担任の先生に言っておく。」先生は子どもたちを学校に連れ戻し、率先して雪を投げた子の肩をつかんで、ぎゅうぎゅう揺すりました。その子はただでさえ問題児で、先生はなおも怒って、こう問いただしました。「一体全体、悪いことをしたとは思わないのか。どういうつもりなんだ。」

 担任の先生はそのことを知らされて、その問題に取り組むのに違った道をとりました。雪を率先して投げた子に、こう言いました。「どうだ、知ってるか、あの家にどんな人が住んでるか。」その子は知らないと言います。「じゃ、行ってみよう。」二人はその家にやっていきます。ドアが開いて、なかに入ります。そこは一人暮らしで、病気で寝たきりの老婆の家でした。隣りの人が換気のために窓を開けて、いったん出てゆき、戻ってきてみると、びっくり、雪でお婆さんのベッドは濡れてるし、床はびしょびしよ。先生と子どもはそのありさまを目にします。先生はお婆さんに挨拶して、子どもを紹介し、これはこの子に責任がありますと言います。さて、二人はそのありさまを見て、どうしたらいいか、二言三言ことばをかわすと、掃除にとりかかりました。そして、そこを辞すときに、先生はお婆さんにこう言いました。「もしかすると、あの子がまた来るかもしれません。」その子は家に帰って、その日のことを母親に残らず話しました。二人は、お婆さんになにが喜んでもらえるか、あれこれ考えます。そして、母親はお花を、その子はジュースをということになりました。以前、病気の時に飲んだジュースがとてもおいしかったのを憶えていたからです。