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略伝自由の哲学第九章e-1

 この回は三十九の段からです。

 

 自由な振る舞いと不自由な振る舞いから、わたしたちの生きるはなりたつ。しかし、わたしたちは、人の自然の紛れない徴としての自由な精神に行きつくことなしには、人という〈考え〉を終いまで考えることができない。わたしたちがまこと人であるのは、わたしたちが自由であるかぎりにおいてである。

 

 人は、たとえば歩きます。ある時はみずから進んで颯爽と、ある時はなにかの都合でしぶしぶと、またある時は「ウォーキング」という、なんだか不自然な歩きかたで・・・。(「なりたつ」に当たるのはsich zusammensetzenであり、sich〈みずからを〉zusammen〈共に〉setzen〈据える〉という言い回しで、「複合、混合、合成」といった意です。)

 とにかく、人はさまざまな歩きかたをします。わたしたちは、その歩きかたにおいて、物質としての人よりも、むしろ精神としての人を見てとってはいないでしょうか。(「徴」に当たるのはAuspragungであり、aus〈外へ〉pragen〈印す〉から来て、「鋳造、はっきり打ち出された特色、明白な特徴」といった意です。)

 そして、颯爽とであれ、しぶしぶであれ、不自然であれ、まさに歩こうとして歩いているのは、精神としての自由な人です。そもそも、わたしたちは「人」ということばで、その精神としての自由な人を指してはいないでしょうか。

 そして、四十の段です。

 

 それは理想であると、多くの人は言おう。たしかにそうであるが、しかし、わたしたちというもののうちのリアルな元手として表に働きかける理想である。それは考えだされたのでも、夢みられたのでもなく、命をもち、そのありかたのいたっていたらないかたちにおいても、はっきりと名のりをあげる理想である。人がたんなる自然のものであったなら、理想を探し求めること、つまり、いまはものをいわなくても、実現が目指されるイデーを探し求めることも無意味であろう。外の世のものごとにおいては、イデーが覚えによって定まつており、わたしたちのすることは、イデーと覚えのかかわりを知るにおいて、しおおせている。人においては、そうではない。人のあるのまるごとは、人そのものを抜きにして定まっているのではない。すなわち、行いの人(自由な精神)というまことの〈考え〉は、覚えの相としての「人」とあらかじめ客としてひとつに合わさっているのではない。つまり、たんに後から知るによってつきとめられるだけではない。人は、きっと、みずからすることをしつつ、人という〈考え〉を、覚えとしての「人」とひとつに合わせる。〈考え〉と覚えがそこにおいて重なり合うのは、人がみずからで重ね合わせるにおいてこそである。しかし、重ね合わせることができるのは、自由な精神という〈考え〉、すなわち、みずからの人という〈考え〉を見いだしてこそである。客としての世においては、わたしたちのなりたちによって、覚えと〈考え〉のあいだに境の線が引かれており、知るがその境を凌ぐ。主としての自然においては、その境は劣らずあるものの、その境を人が育つ歩みのなかで凌ぐ。すなわち、人がみずからの現れのうちにみずからの〈考え〉をつくりあげつつである。そのとおり、人の知性の生きるも、人の行いの生きるも、わたしたちを人の二重の自然へ、すなわち、覚える(じかに生きる)と考えるへと導く。知性の生きるがその二重の自然を凌ぐのは、知るによってであり、行いの生きるがその二重の自然を凌ぐのは、まこと自由な精神を実現するによってである。ひとつひとつのものがそのものならではの〈考え〉(そのもののあると働くの法則)をもつが、外のものごとにおいては、その〈考え〉が覚えと分かちがたく結ばれており、わたしたちの精神のなりたちの内においてこそ覚えから分かたれる。人そのものにおいては、〈考え〉と覚えがさしあたりまこと分かれており、人が同じくまことひとつに合わせる。こんなものいいがつくかもしれない。わたしたちが覚える人の覚えに、その人の生きるどの一時にも、ひとつの定かな〈考え〉が応じるのは、ほかのものというものに同じである。わたしはありきたりの人という〈考え〉をつくりなすことができるし、そのような人を覚えとして迎えたりもするが、その〈考え〉になおかつ自由な精神という〈考え〉を加えるとしたら、わたしは同じ客につき二つの〈考え〉をもつことになる。

 

 くりかえし、はじめの文から見ていきます。

 

 それは理想であると、多くの人は言おう。

 

 自由であること、言い換えれば、人であることは、からだとこころをもってはなかなか実現しがたい、まさに理想です。

 二の文です。

 

 たしかにそうであるが、しかし、わたしたちというもののうちのリアルな元手として表に働きかける理想である。

 

 そもそも、自由という考え、言い換えれば、人という考えは、人というものがまさにものであることの元手であり、人というものの立ち居振る舞いにありありと与っています。(「表に働きかける」に当たるのはan die Oberfläche arbeitenであり、an die Ober fläche〈表面へと〉arbeiten〈仕事をする〉という言い回であり、いうならば「表面の製作に従事している」の意です。)

 三の文です。

 

 それは考えだされたのでも、夢みられたのでもなく、命をもち、そのありかたのいたっていたらないかたちにおいても、はっきりと名のりをあげる理想である。

 

 自由という考え、人という考えは、考えてあみだされたものでもなく、思いもうけられたものでもなく、ましてや夢や幻でもなく、人において生きる生きた考えであり、豊かなかたちをしていようと、いたって貧しいかたちをしていようと、人のこころとからだにおいてあらわにものを言っています(「名のりをあげる」に当たるのはsich ankündigenであり、sich〈みずからを〉ankündigen〈告げ知らせる〉という言い回しで、「現われる、名のり出る」といった意です。)

 そもそも、いうところの理想は、人というものにおいて、いきいきと生き、ありありとものをいい、まさに人というものを仕立てつつ働く考えを指しています。

 四の文です。

 

 人がたんなる自然のものであったなら、理想を探し求めること、つまり、いまはものをいわなくても、実現が目指されるイデーを探し求めることも無意味であろう。

 

 人というものは、人であること、自由であることという理想をもつものであり、さらに、その理想を探し求めるものでもあります。すなわち、人であること、自由であることは、まさに考え(イデー)として見いだされてこそ、いきいきとものをいうようになりますし、豊かなかたちをなすようになります。そして、いきいきとものをいうようになればこそ、人がそれを実現しようとするようになりますし、たわわなかたちをなすようになればこそ、人が豊かに生きようとします。(ついでですが、ヨハネ福音書にはこうあります。「あなたがたはまことを見いだすであろう。そして、まことがあなたがたを自由にする。」)

 五の文です。

 

 外の世のものごとにおいては、イデーが覚えによって定まつており、わたしたちのすることは、イデーと覚えのかかわりを知るにおいて、しおおせている。

 

 わたしたちは、たとえば木を見て(覚えて)、木の法則(イデー)を見いだします。それが、すなわち、木というものを知ることです。わたしたちが見る木とわたしたちが見いだす木の法則のかかわりは、わたしたちがつける前からついています。

 六の文です。

 

 人においては、そうではない。

 

 右のコメントの「木」を「人」または「みずから」と置き換えてみてください。置き換えても、そのコメントはまことだという人は、木と同じ扱いを受けても文句は言えません。

 七の文です。

 

 人のあるのまるごとは、人そのものを抜きにして定まっているのではない。すなわち、行いの人(自由な精神)というまことの〈考え〉は、覚えの相としての「人」とあらかじめ客としてひとつに合わさっているのではない。つまり、たんに後から知るによってつきとめられるだけではない。

 

 たとえば、牛はそのままでいかにも牛らしくあるものです。しかし、人はより人らしくありえます。もっと人間的でありえます。その「より人らしく」の「人」、「もっと人間的で」の「人間」は、悟られ、考えられ、思われるところであり、覚えられる「人」と重なり合ってはいません。つまり、そのふたつの重なり合いは、先立って人の行いによりひとつに重なり合わされてこそ、後から知るによってつきとめられます。

 八の文です。

 

 人は、きっと、みずからすることをしつつ、人という〈考え〉を、覚えとしての「人」とひとつに合わせる。

 

 人のすることの悟りは、そのすることを人がまさにするにおいて、人の覚えに合わさります。言い換えれば、行いの人という理想は、まさに人が行うにおいて実現します。(「みずからすることをしつつ」に当たるのはselbsttätigであり、selbst〈自身で〉tätig〈行為しつつ〉というつくりです。)

 九の文です。

 

 〈考え〉と覚えがそこにおいて重なり合うのは、人がみずからで重ね合わせるにおいてこそである。

 

 人のすることにおいては、まさしく人がすればこそ、考えと覚えがひとつに合わさります。もしくは、することがこととして成就します。(「重ね合あわせる」に当たるのはzur Deckung bringenであり、zur Deckung〈重なるまでに〉bringen〈もたらす〉というつくりです。)

 十の文です。

 

 しかし、重ね合わせることができるのは、自由な精神という〈考え〉、すなわち、みずからの人という〈考え〉を見いだしてこそである。

 

 そもそも、人は、その人の人という〈考え〉を悟って見いだします。その〈考え〉を見いだせばこそ、自由な精神として、みずからのこころとからだを育み、培おうとします。

 十一の文です。

 

 客としての世においては、わたしたちのなりたちによって、覚えと〈考え〉のあいだに境の線が引かれており、知るがその境を凌ぐ。

 

 人がみずからものごとと対し合うにおいては、さしあたって覚えのみを迎えます。それは人が覚えるものであり、考えるものであるという二重のなりたちをしているゆえです。そして、その二重が知るによって一重に重なり、ものごとがまさにものごととしてリアルになります。(それについては、ことに5-c-1の回を見てください。)

 十二の文です。

 

 主としての自然においては、その境は劣らずあるものの、その境を人が育つ歩みのなかで凌ぐ。すなわち、人がみずからの現れのうちにみずからの〈考え〉をつくりあげつつである。

 

 人がみずからと対し合うにおいても、さしあたっては覚えのみを迎えます。しかし、その覚えられるみずからのうちに、まさにみずからの人という〈考え〉を、広やかに、いきいきと深く、たわわにつくりあげつつ、みずからを育み、培って、まさに人となっていきます。

 十三の文です。

 

 そのとおり、人の知性の生きるも、人の行いの生きるも、わたしたちを人の二重の自然へ、すなわち、覚える(じかに生きる)と考えるへと導く。

 

 右に見てとるとおり、人は知るにおいても、行うにおいても、おのずからながら、まずは二重のなりたちをしていますただ、その二重を一重にする道筋が異なります。

 十四の文です。

 

 知性の生きるがその二重の自然を凌ぐのは、知るによってであり、行いの生きるがその二重の自然を凌ぐのは、まこと自由な精神を実現するによってである。

 

 人が生きつつ知るにおいて二重を一重にするのは、二重のかかわり(重なり合い)を見いだしつつ、つきとめるによってであり、人が生きつつ行うにおいて二重を一重にするのは、自由な精神という生きた〈考え〉を、みずからの覚えに通わせるによってです。言い換えれば、まさにその人という理想を実現するによってです。

 十五の文です。

 

 ひとつひとつのものがそのものならではの〈考え〉(そのもののあると働くの法則)をもつが、外のものごとにおいては、その〈考え〉が覚えと分かちがたく結ばれており、わたしたちの精神のなりたちの内においてこそ覚えから分かたれる。

 

 そもそも、ものごとの法則(〈考え〉)は、ほかでもなく、ものごとにおいて見いだされます。そして、ものごとの覚えとものごとの法則が分かれるのは、ほかでもなく、わたしたちのおのずからななりたちにおいてです。(「そのものならではの」に当たるのはeingeborenであり、gebären〈生む〉から来て、「生来の、天賦の、固有の」といった意です。)

 十六の文です。

 

 人そのものにおいては、〈考え〉と覚えがさしあたりまこと分かれており、人が同じくまことひとつに合わせる。

 

 人みずからにおいては、その人の人という〈考え〉とみずからの覚えが分かれています。そもそも、人は、その人の人という〈考え〉を、まだまだ悟りきれてはいないはずですし、悟ったところを、みずからの覚えに、まだまだ重ねきってはいないはずです。そもそも、人というものは、人にとって自明といえば自明でしょうが、謎といえば大いなる謎ではありませんか。(「まこと」に当たるのはtatsächlichであり、tat〈する〉säch〈ことを〉lich〈もって〉というつくりです)

 十七と十八の文です。

 

 こんなものいいがつくかもしれない。わたしたちが覚える人の覚えに、その人の生きるどの一時にも、ひとつの定かな〈考え〉が応じるのは、ほかのものというものに同じである。わたしはありきたりの人という〈考え〉をつくりなすことができるし、そのような人を覚えとして迎えたりもするが、その〈考え〉になおかつ自由な精神という〈考え〉を加えるとしたら、わたしは同じ客につき二つの〈考え〉をもつことになる。

 

 そのものいいについては、次の段とのかかわりがありますので、次の回に取り上げます。