· 

略伝自由の哲学第九章f-2

 この回は九の章の、いよいよというか、やっとというか、お終いの二つの段で、四十七と八の段です。まず、四十七の段がこうあります。

 

 こういう定式が打ち出されてはなるまい。すなわち、人が存在するのは、その人がその人なりのものにした行いの世の秩序を実現するためであるとか。そう言い立てる人は、自然科学において、牛が角をもつのは突くためであると信じる立場に、人であることの科学において立つことになろう。自然を研究する人は、幸いにも、そのような目的という〈考え〉を葬り去った。倫理学はその〈考え〉から自由になることが、なかなかできない。しかし、角が突くためにあるのではなく、突くことが角によってなされるように、人が人としての行ないのために存在するのではなく、人としての行ないが人によってである。自由な人が人として振る舞うのは、その人が人としての行ないのイデーをもつからであるが、その人が振る舞うのは、人としての行ないが生じることを目的としてではない。人のひとりひとりは、ひとりひとりに属する人としての行ないのイデーともども、行ないの世の秩序の前提である。

 

 くりかえし、はじめの文から見ていきます。

 

 こういう定式が打ち出されてはなるまい。すなわち、人が存在するのは、その人がその人なりのものにした行いの世の秩序を実現するためであるとか。

 

 いまはさほどでもないですが、それでもたまに、あなたはなにをするために生まれてきたのかとか、あなたはなんのために生きているのかというような問いが、他の人から突き付けられることがあります。それに対して、わたしはいまだに口ごもってしまいますし、なんだか見下されているような気持ちにもなります。口には出されなくても、人としてこれこれをするのがいいことであるとか、自分なりの生き方をはっきりと思い描けないのは、「自立していない」こと、「自我が確立されていない」ことの証であるとか言われているみたいで。その種の凝り固まった考えのかたち(「自己中」ともいうようです)に絶えず晒されていたら、「自分探し」とかも平気でしちゃうかもしれません。(「定式」に当たるのはFormelであり、Form〈かたち〉から来て、「一定の形式きまり文句、公式」といった意です。)

 二の文です。

 

 そう言い立てる人は、自然科学において、牛が角をもつのは突くためであると信じる立場に、人であることの科学において立つことになろう。

 

 数年前ですが、テレビの動物ドキュメントのシリーズで、繁殖期のオスとオスの争いのシーンには決まつて「強い子孫を残すために」というナレーションが入りました。「ヘー、オスが生きていくのはどの世界でも大変なんだ。ところで、メスは自然淘汰のために、なにをしているんだ」などと、つっこみを入れたりもしていました。(「人であることの科学」に当たるのはMenschheitswissenschaftです。「人であることMenschheit」については、ことに9-b-3の回を、「科学Wissenschaft」については、ことに8-c-2の回を見てください。)

 三の文です。

 

 自然を研究する人は、幸いにも、そのような目的という〈考え〉を葬り去った。

 

 哲学事典で目的論の項を引くと、「いっさいは人間の効用と慰安のためにつくられている」という原初的な考えが、ここ二千有余年のあいだに、だんだんと改められ、いよいよ十九世紀には、自然淘汰という考えによって生物についても目的という考えが退けられ、「目的論は人間の行動に関してのみいわれることとなった。だが現代の唯物論はこれをも、究極的には人間の生存条件、社会の物質的生活条件に規定されるものとする」とあります。

 四の文です。

 

 倫理学はその〈考え〉から自由になることが、なかなかできない。

 

 なるほど、自然科学の分野では、自然淘汰という考えが、生物に関しても「・・・のために」という考えを葬りましたが、しかし、オス同士の生存・淘汰の争いが「強い子孫を残すため」だというのは、自然科学を売りにする分野において「・・・のために」という考えが、かえってしぶとく生き残っているからではないでしょうか。

 五の文です。

 

 しかし、角が突くためにあるのではなく、突くことが角によってなされるように、人が人としての行ないのために存在するのではなく、人としての行ないが人によってである。

 

 牛が角によって突くように、人が振る舞いの考えによって振る舞います。角が突くためにあるという人は、角を矯(た)めて牛を殺します。同じく、振る舞いの考えが振る舞うためにあるという人は、振る舞いの考えを矯めて人を殺します。つまり、「思想」「哲学」「叡智」とかを担ぎ上げたり、「戦略」「想定内」「人生設計」とかを引き立てたりして、人をも世をも見落とすか、見下すか、見殺しにするかです。

 六の文です。

 

 自由な人が人として振る舞うのは、その人が人としての行ないのイデーをもつからであるが、その人が振る舞うのは、人としての行ないが生じることを目的としてではない。

 

 わたしは鉢植えのラベンダーに水をやります。水をやることを目的にしでではありません。ラベンダーが育つことを目的としてです。なるほど、ときどきは、わたしの生存条件(計画性がない)と生活条件(忙しい)のゆえに、水をやり忘れていて、ラベンダーがぐったりしていたりもしますが、しかし、なんとか枯れずに育っています。

 七の文です。

 

 人のひとりひとりは、ひとりひとりに属する人としての行ないのイデーともども、行ないの世の秩序の前提である。

 

 すなわち、水をやるという、わたしの行ないには、わたしというひとりの人と、ラベンダーが育つように水をあげようという、わたしの考えが、目的ではなくて、前提です。

 そして、四十八の段です。

 

 人のひとりひとりは、人としての行いという行いの源であり、地上での生の中心である。国家、社会が存在するのは、ひとりひとりの生の必然的な結果として生じるからである。そして、国家と社会がひとりひとりの生に働き返すことは、角によって存在する突くということが、牛の角のさらなる発達へ働き返すのと同じようにとらえられる。角も、しばらく用いられなければ、衰えるであろう。同じく、ひとりひとりの人も、人のコミュニテイの外でその人なりの生を導くとしたら、きっと、衰えるであろう。まさに社会の秩序がうまく出来上がつていくのは、好ましく人のひとりひとりへと働き返すためである。

 

 人と人が行き交うことによって、さまざまなコミュニティが生まれ、なりかわりもすれば、消えていきもします。

 また、そこでは人が育まれもすれば、潰されもしますし、そこを出てゆく人もいれば、そこを変えようとする人も出てきます。

 さらに、そこでは人がみずからに目覚め、みずからを変えようとするようにもなります。

 そして、人の目覚めと成長を促すコミュニティが、いきいきと発展していきます。(「うまく出来上がっていく」に当たるのはsich bildenであり、sich〈みずからを〉bilden〈つくりなす〉というつくりで、「生じる、開花する」といった意です。)