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略伝自由の哲学第十章 a

 この回から十の章に入ります。章のタイトルは「自由の哲学と一元論Freiheitsphilosophie und Monismus」です。まず、一の段がこうあります。

 

 ナイーブな人、みずからが目で視、手でつかむことができるところをこそ現実として立てる人はみずからの行ないの生に向けても感官をもって覚えられる基を求める。その人は、その行いの基を感官にとって分かるように伝えてくれるものを求める。その人はみずからよりも賢く、強いと見なす人、または、その他の理由でみずからの上に立つ力と認める人から、その行ないの基を命じてもらうようになる。そのようにして、行ないの原理として出てくるのが、先にいう家の、国家の社会の、教会の、神の権威である。最も囚われた人は、他のひとりを信じ、いくらか先へと進んだ人は、みずからの行ないのありようを、多数(国家、社会)によって命じてもらう。いついつにも、その人が頼みとするのは、覚えられる力である。ついには、それがおおもとではみずからと同じく弱い人であるという確信が明るみはじめた人は、より高い力に案内を求める。その力は、こうごうしいものであるが、しかし、その人は、そのものに、感官で覚えられる性質を備えさせる。その人は、そのものから、みずからの行ないの生の、考えとしての内容を、これまた覚えられるように伝えてもらう。たとえば、神が燃える茨の茂みに現れるとか神がからだをもつ人の姿で人々のもとを歩み、人々がなにをすべきであり、なにをすべきでないかを、人々の耳に聞こえるように話すとかである。

 

 子どもは「ナイーブな人」のごとくです。目にするもの、耳にするもの、手にするもの、口にするもの、とにかく感官をもって覚えるものに沿ってこそ、いきいきと生きます。しかし、その覚えるには、まさに賢く、強いところがあります。たと

えば、ことばを身につけるに際しても、耳に聴こえることばを、ほかのだれかに説き明かしてもらうまでもなく、聡く、みごとに身につけます。

(なお「ナイーブnaiv」については、ことに7-b-l, 7-b-2の回を見てください。)

 さらに、育つとともに、感官によって覚えられるところが、想われるところとなり、考えられるところとなります。それにつれ、賢さも強さも、想う、考えるにおいて発揮されるようになります。たとえば小学生が、親、先生をはじめとする大人を想いつつ、また友たちのこと、年下のことを思いつつで、もろもろのことを、なんとすばらしく、いきいきと学ぶでしょうか。

 しかし中学生、高校生ともなれば、親、教師、大人、社会、国家、神仏など、なんらかの権威を有するものを、疎ましく遠ざけもしますし、ひとりの友を信じて裏切られ、手痛い想いをするとか、つい多数派についてしまってそれなりの義理を、立てざるをえなくなり、息苦しさを感じるとか、いろいろな苦を味わいもしますがそれはとりも、なおさず想うと考えるが、いよいよもってひとりの人のすることとなるプロセスに伴うことです。そして、それとともに、それまでの大いなる賢さ、びんびんの強さが、そこそこの賢さ、ほどほどの強さでしかなくなります。

 そしてひととおりひとりだちした人のうちに、それまでのしきたりの跡をひきずりつつで、れっきとした「ナイーブな人」が共に住っていたりもします。たとえば、カリスマになびくとか、人を見れば、まずもって、どのグループ(民族、地域、性別、階層、人脈、宗派、学校、家など)に属しているか探りを入れるとか、世の中はカネとコネだという考えをモットーに振る舞うとか、心霊写真(なんで映っているのか知りませんが、映っているのは人の顔とか手で、紛れもなく人のからだです)で騒ぎ立てるとか、すでに死語でしょうが、現人神を担ぎ上げるとか、いわば、そこそこの賢ささから、「感官に覚えられるところが現実である」という考えを立てて、みずからよりも賢く、強いものにあやかろうとする人です。

 また、かつての人も「ナイーブな人」のごとくでした。たとえば「神が茨の茂みに現れる」というのは、なによりも旧約の時代の人にとってものをいっていた考えであり、「神がからだをもつ人の姿で・・・」は、なによりも新約のはじまりの時代の人にとってものをいっていた考えです。ギリシャの彫刻を見ても明らかなように、神々はれっきとした人の姿をとっています。そうした、かつての時代の人にいきいきとものをいっていた考えにも、そこそこの人の賢さに尽きない賢さ、ほどほどの人の強さを凌ぐ強さが湛えられていました。そもそも、それらのことは、かつての時代の人にとっては、なによりも精神のことでした。

 二の段です。

 

 人の行ないという分野における、ナイーブなリアリズムの最も高い歩みの次元は、行ないの掟(行ないのイデー)が、いちいちの他者から引き離され、仮説により、絶対的な力として、みずからの内に考えられる次元である。人が、はじめは外なる、神の声として聴きとっていたところを、いまやひとりだちした力として、みずからの内に聴きとり、その内なる声について云々して、その声を良心と同じく扱う。

 

 哲学事典で「良心」の項を引くと、まずsyneidesis, synteresis(ギリシャ語),consientia(ラテン語),Gewissen(ドイツ語)といった原語が挙げられています。そして「これらの西洋語は広義には意識のことであり、前綴りsyn-,con-,ge- に注目するならば、全体知であり、共同知であり、また自己意識ないし自覚である」とあり、さらに「良心という明確な概念は、良心という客観的、現実的に生起する個人の生々しい体験、換言するならば人間の全人格にかかわる心的現象ないし個人的事実から得られる」とあります。つまり、それらの原語は、はじめ「全体知」「共同知」というように、あまねき覚えを指していましたが、やがて「個人的事実」「心的現象」というように、ひとりひとりの内面を指すようになりました。言い換えれば、かつてはだれもが外なる覚えとひとつに受けとっていた賢さと強さが、ある時から、ひとりひとりによって内々に考えられるだけになり、さらに、ひとりひとりそれぞれで、そこそこに思い返されようにもなります。(「同じ〈扱う」はgleichsetzenであり、gleich〈同じに〉setzen〈置く〉というつくりで、「同等に扱う、同ー視する」といった意です。)

 ちなみに、そのいわば転換期に生きた人の説を、件の事典から拾ってみます。「ヒエロニムス(1360-1416)によればsynteresisはアダムが楽園から追放された後にもなお人間に残されている良心の火花scintilla conscientiae」であり、「トマス•アクィナス(1225~1274)によればsynteresisは善への肯定的態度と悪への否定的態度とを直接に示す人間の生得的能力の総括概念」です。加えて「理」の項には、「朱子(1130-1200)は程伊川(テイイセンと読むのでしょうか、1033-1107)の哲学を継ぎ・・・存在論的な立場から「所以然之故」といい、法則的、倫理的立場から「所当然之故」といっている。・・・理は観念的に把握されるだけである・・・しかし、宇宙の原則であり・・・さらに仁、義、礼、智のごとき徳も・・・理にほかならない。そして、理は・・・一物一物のうちにもかならず存在している)とあります。つまり11,12から14,15世紀にかけて、行ないの基、振る舞いのよりどころは、外から内ヘ、覚えから考え(「観念」「概念」「火花」)へと移ってきます。そして、さらに、こういうことが続きます。

 すなわち、三の段です。

 

 しかし、そのことをもっては、ナイーブな意識の次元がすでに後にされており、そして、わたしたちは、行ないの法則が規範としてひとりだちさせられる域へと踏み込んでいる。その法則は、もはや担い手をもたず、メタフィジカルなものとなり、それそのものによって存在する。その法則は、メタフィジカルなリアリズムの、見えないのに見える力と同じであり、そのリアリズムは、現実を、その現実に人というものが考えるにおいて資するところによって探り究めるのではなく、現実を仮に考えつつで、生きられるところへと付け加える。その、人をよそにした行いの規範が、そのメタフィジカルなリアリズムの随伴現象としても立ち現れる。そのメタフイジカルなリアリズムは、きっと、人の行ないの源をも、人をよそにした現実の分野に探し求める。そこには、さまざまな可能性がある。前提されているものが、物質主義のそれのごとくに、それそのものでは考えを欠き、ひとえにメカニックな法則に沿って働くものと考えられているにおいては、そのものが、人のひとりひとりをも、そのものにまつわるすべてとともに、ひとえにメカニックな必然性によって、それそのものから生みだす。自由の意識は、そこではたんに幻想でありうるのみである。そもそも、わたしが、わたしを、わたしの振る舞いの生みだし手と見なすあいだにも、わたしの内には、わたしを組み立てている物質および物質の運動プロセスが働く。わたしが自由だと信じても、わたしの振る舞いのすべては、事実、たんに、わたしのからだと精神の生きた織りなしの下にある物質のプロセスの所産であるのみである。ただ、わたしたちは、わたしたちを強いているモチーフを知らないからこそ、自由の情を抱くというように、その見解は語る。「わたしたちは、ここでもまた、このことを引き立てなければならない。すなわち、その自由の情は・・・外なる強いるモチーフを見のがしていることに基づく。」「わたしたちの振る舞うは、わたしたちの考えると同じく、必然のしからしめである。」(ツィーエン『生理学的心理学入門』)

 

 人が内なる声に従って振る舞うことをもって、その内なる声を立てることが始まります。

 その内なる声は、からだの耳に響いてくるフィジカルな声でなくて、ひとりの人の内に響いてくるメタフィジカルな声です。

 そして、その声を立てるべく、その声のみなもとを、ひとりひとりの人がそれぞれの覚えをもとにして、思いもうけることが始まります。すなわち、そこに思いもうけられるところは、覚えられないのに覚えられるがごとき、人が知ろうとしても決して知ることのできない、かの「ものそのもの」と変わるところがありません。(「ものそのものDing an sich, Wesen an sich」については、ことに7-a-1, 7-a-2の回を見てください。)

 そもそも、ものそのものという、人の与り知らない現実を立てる論には、人の与り知らない規範の論が伴います。(なお「メタフィジカルなリアリズムmetaphysischer Realismus」については、ことに7-b-2, 7-c-lの回を見てください。)

 ものそのものを立てる人は、きっと、振る舞いのよりどころをも、ものそのものに求めることになります。

 そして、その求めかたも、求める人によりけりで、さまざまであり、そこそこです。

 ものそのもの、言い換えれば、まことの現実として、「物質」という「客観的」で、「考えられる以前にある、メカニックなもの」を思いもうける人は、世と人を知ろうとするにも、ひたすら物質を探り究めることによって、「物質」に迫ろうとします。そもそも、その人にとっては、世も人もまことは「物質」であり、そこには自由などはなからありえないことです。

 四の段です。

 

 もうひとつの可能性はこうである。ある人が、ひとつの精神のものにおいて、現象の背後にひそむ、人をよそにした、絶対のものを視る。その人は、振る舞いへの駆り立てをも、そのような精神の力のうちに探し求めるようになる。その人は、理性において見いだされる行ないの法則を、その、ものそのものの発露と見なすようになる。つまり、そのものが、人とともに、ことさらな意図を有するのである。行ないの法則が、その向きの二元論者には、絶対者から命じられるところとして現われ、そして、人は、理性によって、たんにその絶対的なものの思し召しを探り出し、執り行うだけのものである。行ないの世の秩序が、その二元論者には、その秩序の背後にある、より高い秩序の覚えられる映しとして現れる。地上の人の行ないが、人をよそにした世の秩序の現われである。その行ないの秩序において要であるのは、人でなくて、その、ものそのもの、人をよそにしたものである。人がなすべきなのは、そのものの欲するところである。エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、そのものをこうごうしいものとして思い浮かべる。そして、そのものにとっては、みずからの存在が苦である。ハルトマンは、そのこうごうしいものが世を創り出したのだと信じる。つまり、そのものが、世によって、そのものの果てしなく大きな苦から救われるようになるというのである。そこから、その哲学者は、人という人の行ないの歩みを、そのこうごうしいものを救うために存在するプロセスだと見なす。「理性をもってみずからを意識するひとりひとりの側から、ひとつの行ないの世の秩序が築き上げられることによってこそ、世のプロセスは、その目指すところへと導かれる。」「リアルな存在は、そのこうごうしいものの受肉であり、世のプロセスは、その肉となった神の受難史であり、同時に、その肉を十字架として背負う神が救われる道である。かたや、人の行ないは、その苦と救いの道を短くすることへと共に働きかける。」(ハルトマン『倫理意識の現象学』)そこにおいては、人が欲するから振る舞うのでなく、神が救われることを欲するから、人が振る舞うべきなのである。物質主義的な二元論者が人を自動機械に仕立て、人の振る舞いをメカニックな法則性の所産にすぎないとするように、精神主義的な二元論者(すなわち、精神のうちに絶対者を視る者、つまり、人が意識して生きることをもっては与り知れないものそのものを視る者)が、人をその絶対者の意志の僕に仕立てる。自由は、物質主義において、また、一面的な精神主義において、総じて、人をよそにしたものをまことの現実として推し量りつつ、まことの現実を生きないメタフィジカルなリアリズムにおいては、締め出されている。

 

 まことの現実、または、ものそのものとして、「絶対的な」精神のものが、人によって思いもうけられ、それが「神」とか「義務(定言的命令)」といった名で呼ばれもします。その人が振る舞うにおいては、きっと、その「絶対的な」精神のものに従って、みずからを律することが、いいこととなり、その他がいけないこととなります。そこにも、自由はありえません。(「思し召し」に当たるのはRatschlßであり、「決意、決議、御意」といった意です。)

 ついでですから、件の事典に挙げられている「良心」の説として、最も新しいものも引いておきます。「ヤスパ一ス(1883~1965)によれば、良心は現実的な自己を絶対者と関係させる絶対意識の根源からの活動であるが、良心の声は神の声ではない。が、そこにはすでに絶対的全体性の理念が規制原理として働いている。」「ハイデッガー(1889-1976)によれば、良心の声は自己にのみ聞こえる声なき声であり、世人のうちに埋もれている日常的、平均的自己を固有の自己へと呼び覚ます本来的自己の声である。」

 そして、五の段です。

 

 ナイーブなリアリズムも、メタフィジカルなリアリズムも、きっと、ひとつにして同じ基から首尾一貫して自由を打ち消す。すなわち、どちらも、人において、人へと必然として押し付けられる原理の執行者、または実施者を視るきりだからである。ナイーブなリアリズムが自由を殺すのは、覚えられるものに従うか、または、覚えに準えて考えだされるものに従うか、または、つまるところ、絶対的な内なる声、指して言うところの「良心」に従うかによってであり、たんに人をよそにしたものを推し量るメタフィジックの論者が自由を認めることができないのは、人がメカニズムにおいて、または、モラルにおいて、「ものそのもの」によって定まるとするからである。