· 

略伝自由の哲学第十章 c

 この回は十の章の九の段からです。

 

 一元論は、すなわち、まさに人のする振る舞いの分野において自由の哲学である。一元論は、現実の哲学であるゆえに、自由な精神をメタフィジカルに、非現実的に限る柵をよく退けるとともに、ナイーブな人をフィジカルに、また歴史的に(ナイーブにして現実的に)限る柵を同じようによく認める。一元論は、人を完成品、つまり、そのものの生きるどの時にも、そのもののものたるところをまるまる繰り広げるものとしては見てとらないゆえに、一元論にとっては、人がそれとして自由であるか否かという論争が空しく映る。一元論は、人において、みずからを育みつつあるものを視て、その育みの路のうえで自由な精神の次元にも行きつくことができるかどうかと問う。

 

 人にとって、ものがあり、ことがあるのは、覚えと悟りの重なり合い、見ると考えるの働き合いにおいてです。そして、人のすることも、ことのうちです。さらに、人が考えつつ悟るからするにおいて、まさに人のすることの覚えが、自由な感じとともにあるにいたります。すなわち、自由なことが生じます。(「まさに人のする」に当たるのはwahrhaft sittlichで、wahrhaft〈まことに〉sittlich〈行ないである、行ないをもつ〉という言い回しです。なおSitte〈行ない〉については、9-b-1の回を見てください。)

 悟りつつ考えるひとり、すなわち、自由な精神にとって、推し量りつつ思いもうけられるだけの限界というものは、ものではありませんが、かたや、覚えにもとづく思いに従って、自由な精神をさしおきつつ、あるいは阻みつつなされることは、まさしくことであって、否みようがありません。(「限る柵」に当たるのは、Einschränkungであり、ein〈なかへと〉schränken〈柵で囲う〉から来て、「囲い込み、制限、拘束」といった意です。)

 

 バラが育ちながらバラとなりゆくように、人もまた育ちながら人となりゆきます。そのなるということをありありと見てとるところからは、人がそれとして自由であるかどうかを巡る議論(ーの章)が、ことに西洋の歴史の上のことながら、しみじみと空しく感じられはしないでしょうか。(「繰り広げる」に当たるのはentfaltenであり、「展開、開示、啓発」といった意です。「空しい」に当たるのはnichtigであり、nicht〈無〉tig〈のような〉というつくりです。)

 そして、その育ちながら人となりゆく路は、きっと、「紆余曲折、七転び八起き」などをもって、ひそかながら自由な精神の目覚めを促します。まさにそのひそかさを問うのが、ここにいう一元論です。(「みずからを育む」はsichentwickelnであり、sich〈みずからを〉entwickeln〈繰り出す〉という言い回しで、「発展、発達、成長、進化、育成」といった意です。)

 十の段です。

 

 一元論の知るところ、自然は人を自由な精神として仕上がり済みで手放すのではない。自然は人をそれなりの次元にまで尊き、そこからは人が未だ自由でないものとして、みずからをさらに育みつつ、みずからをみずからで見いだす点にまで行きつく。

 

 さきに見たとおり(10-a)、子どもは、おのずからながら「ナイーブな人」のごとくです。そして、ひととおりひとりだちした大人のうちに、ナイーブなリアリストが共に住まい、また、メタフィジカルなリアリストが共に住みつきもします。しかし、道はさらに続きます。人が、いうならば茨の道を歩みながら、いつしか、自由な精神というものに目覚めるにいたります。言い換えれば、人が、いつしか、まさに人として、まさしくひとりだちするに向けての元手を見いだします。さらに言い換えれば、ひととおりひとりだちした人のうちに、いつしか、まことのリアリストが共に住まうようになります。そもそも、自由な精神というのは、ほかでもなく、人というもののまたの名です(9-d-2, 9-e-1)。なお、そこまでの道のりは、数十年で歩まれますが、歴史的にも数千年にわたって歩まれてきていること、これまたさきに見たとおりです(10-a)。

そして、十一の段であり、お終いの段です。

 

 一元論には明らかながら、フィジカルな強(し)い、またはモラルの強いのもとに振る舞うものは、まさに人のする行ないをもつことができない。一元論は、オートマチックな(おのずからなもよおしや本能に従っての)振る舞いによる道行きと、従順な(行ないの規範に従っての)振る舞いによる道行きを、人の行ないをもつに欠かせない前段として見てとるが、しかし、そのふたつの道行きの局面を自由な精神によって凌ぐ可能性を見抜く。一元論は、まさに人のする行ないの世を観るということを、あまねく、ナイーブな行ないのマキシムという、世の内なる軛(くびき)と、思弁するメタフィジックの論者による、世の外なる行ないのマキシムから自由にする。一元論が前者を世から締め出すことができないこと、覚えを世から締め出すことが一元論が後者を拒むのができないのと同じであり、一元論が後者を拒むのは、世の現象を明らかにするための説き明かしの原理のすべてを、世の内に求めて、世の外には求めないからである。一元論は、他の知の原理をそれとして考えることすらも、人のために拒むように(七の章)、他の行ないのマキシムについての考えをも、それとして、人のために、きっぱりと退ける。人の行ないは、人の知と同じく、人の自然によって決まっている。そして、他のものならば、知るということのもとに、わたしたちがわきまえるのとはまったく違ったことをわきまえるであろうように、他のものならば、また違った行ないをもつであろう。人の行ないをもつことは、一元論を奉じるものにとって、ことに人ならではの性質であり、自由は、人の行ないをもつことの人ならではのかたちである。

 

 もよおしや、本能が人を強いるように、また、想いや、思いや、考えが人を縛ります。まずは、その強いに強いられ、その縛りに縛られての振る舞いをもって生きてゆくなかでこそ、その強いに向き合い、その縛りに対し合いつつ、やがて、その強いをまさに強いとして知り、その縛りをまさに縛りとして意識する時が訪れます。まさにその知によってこそ、その強いが凌がれ、まさにその意識によってこそ、その縛りが解かれます。そして、その知は、ひめやかな深みを湛えた、まさにひとりの人の知であり、その意識は、澄みやかにあまねき、まさに自由な精神です。(「道行き」に当たるのはDurchgangであり、Durch〈通って〉gang〈行くこと〉というつくりで、「通行、通路、経過」といった意です。「局面」に当たるのはStadiumであり、ギリシャ語stadion〈長さの単位、競技場〉から来て、「展開の一局面」という解があります。)

 その知、その意識は、人という人のすることというすることを、覚えに囚われてつくりなされた思いにも、世の外という思いもうけにも縛られず、いわば長い目で見やります。その知、その意識は、その見やることから、「世の外」や「人の他」についての、とりとめもない仮の考えを、きれいさっぱり吹き払います。というのも、その仮の考えが、さながら雲のごとくに、自由な精神を遮るものだからです。そもそも、考えも、思いも、想いも、覚えられるところであり、世の内です。また、人のすることも、人の自然である、本能や、もよおしや、情やの覚えを弾みとし、これまた人の自然である考えるから来る、考えや、思いや、想いをモチーフとして、世のうちに仕立てられます。さらには、その仕立ても、世において人が人となりゆくプロセスの一齣です。

 そして、人は、まさにその人のすることをもってこそ、まさにその人であり、自由は、人がまさにその人のすることをもつかたちです。

 さて、この回のお終いには、加藤鍬那『芭蕉全旬』(ちくま学芸文庫)から、こういうー節を引きます。

 

           秋深き隣は何をする人ぞ

 

 相知ることもなくひそかに隣りあって生きることに深い寂寥を感じつつも、隣人に対してひそかに人間同士のつながりの思いが広がつてゆき、それが「何をする人ぞ」という心の傾きに結晶してゆくのである。隣人のひそやかな生きざまに、己の在り方を省みる心でもある、この旬では描写という要素はほとんど切り棄てられ、ただ「秋深き」という季節感に集約されている。そしてそれは、自分も彼もあらゆるものが、秋深き底にある、その中の「秋深き隣」という把握なのである。