· 

略伝自由の哲学第十一章 b

 前の回をすこし振り返ります。人のすることには目的があります。すなわち、することという果が、考えを介して、する人という因に働きかけます。

 そして、そこにこそ自由への道が見いだされます。すなわち、人のすることは、その人が考えるから考えとして見いだすこともできますし、その考えからの働きかけが、その人を、その人がすることを通して、ますますその人に仕立てます。

 しかし、その意味での目的は、見てとるかぎり、人のすることのほかには、どこにもありません。

 さて、この回は十一の章の五の段からです。

 

 目的という〈考え〉を奉じる人は、その〈考え〉を捨てると、世の秩序とまとまりのすべてを捨てることになると信じる。たとえば、ロベルト・ハマリングの言うところを聴いていただきたい(『欲するの原子論』第二巻、201頁)。「自然のうちにもよおしがあるかぎり、自然の目的を打ち消すのは、愚かである。

 人のからだの一節のつくりが、その一節の、宙に浮いたイデーによってではなく、より大きなまるごと、すなわち、その一節が属しているからだとのかかわりによって定まり、条件づけられているように、植物であれ、動物であれ、人であれ、自然のもののひとつひとつのつくりが、そのものの、宙に浮いたイデーによってではなく、より大きな、目的に沿って息づき、つくりあげる自然というまるごとの形の原理によって定まり、条件づけられている。」そして、同じ巻の191頁には、こうある。「目的論が言い立てるのは、ひとえにこうである。すなわち、生き物が生きることに、あまたの不快と痛みが伴おうとも、ひとつの高い計画性、目的性が、自然の産物、自然の繰り出しには、まがいようもなくありあわせている。その計画性、目的性は、しかし、自然法則のうちでこそ現実となるのであり、生きることに死ぬことが対することなく、なることに朽ちることや、多かれ少なかれ喜ばしくはなくても、避けがたい中間段階やが対することのないような、なまくらな世を目指すものではありえない。

 自然があらゆる領域で見せるとおりの目的性の奇跡の世に対して、目的という〈考え〉に敵する者が、なかばであれ、まるまるであれ、思い違いによるのであれ、現実的にであれ、目的性の欠けるがらくたを、あくせくと集めて、つきつけるのも、わたしには同じく滑稽に見える。」

 

 いかがでしょうか。ハマリングはイデーと目的をまったくの別物、根っから異なる二元と考えています。しかし、イデーも、目的も、また、かかわり、原理、計画も、かたちは違いこそすれ、考えうるかぎり、考えであることに変わりありません。

 すなわち、八の段がこうあります。

 

 そこで目的性と呼ばれているのは、なんだろうか。覚えのかずかずが、ひとつに折り合って、ひとつのまるごとをなすことである。しかし、覚えという覚えの基に法則(イデー)があり、そのイデーを、わたしたちが考えるによって見いだすのであって、覚えのまるごとの節々が計画性をもって折り合うというのは、まさしく、その覚えのまるごとに含まれるイデーのまるごとの節々が、イデーとして折り合うことである。動物や人が宙に浮いたイデーによって定まるのではないというのは、誤った言い方であり、そして、裁かれている見解は、言い方をふさわしく仕立てるにおいて、おのずから、そのおかしなところをなくす。動物は、なるほど、宙に浮いたイデーによってではないが、しかし、動物に生まれついての、かつ、動物の法則性をなしているイデーによって定まっている。まさしく、イデーがものごとの外にあるのではなく、ものごとの内に、そのものごとたるところとして働くゆえに、目的性については云々しようがないのである。まさしく、自然のものが外から定まっているということ(宙に浮いたイデーによってであろうと、被造物の外にして造物主の精神の内にあるイデーによってであろうと、この関連ではまったく同じである)を打ち消す人は、きっと、このことを認める。すなわち、そのものは、目的どおりに、計画をもって、外からではなく、そのものとして、法則どおりに、内から定まる。わたしが、ひとつの機械を、目的に応じてつくるのは、部分部分を、部分部分が自然からもちあわせるのではないかかわりのうちへと据えるにおいてである。その設えの目的に応じているところは、わたしが機械の働き方を、機械のイデーとして、機械の基に据えたことにある。機械は、それによって、それなりのイデ一をもつ、覚えの客となっている。自然のものも、また、そのようなものである。ひとつのものが法則どおりにつくりなされているゆえに、それを目的どおりと呼ぶ人ならば、自然のものにもその同じことばを宛てがうであろう。ただ、その法則性が、主である人の振る舞いの法則性と取り違えられてはならない。目的には、働きかける因が〈考え〉であり、しかも果の〈考え〉であることが、どこまでも欠かせない。しかし、自然においては、いずこであろうと、〈考え〉が因としてつきとめられはしない。そこでは、〈考え〉が、いついつにも、因と果の、イデーであるかかわりとしてこそ明らかになる。因が自然のうちにあるのは、覚えのかたちにおいてこそである。

 

 人が、たとえば植物を見て、植物の法則を見いだします。そして、その法則が、見いだされるによって、追って考えられるところとなります。そもそも、法則は、見るに考えるが相侯って見いだされます(四の章)。そして、法則が追って考えられるところ、もしくは想いとなるのも、見るに考えるが相侯ってこそです(六の章)。

 すなわち、植物という考えが、まずは植物において植物の法則として見いだされます。その法則は植物に属し、植物においてものをいっている考えです。そして、後には、その考えが人の頭において追って考えられ、「宙に浮いたイデー」というかたちをとりもします。(「物自体」に「ぬばたまの」という枕詞を付けた人がおりますが、みごとです。ハマリングがいう「宙に浮いた」も「イデー」の枕詞でしょうが、すこし不自由です。つまり、イデーは人の頭に浮かぶ、ものごとの影でしかないといった考えが、かれの頭にあって、かれを捕らえています。)

 さらに、人が、たとえば畑をつくり、作物を育てます。そして、畑にも、作物にも、つくる人、育てる人の考えが見いだされます。また、つくる人、育てる人から、その人の考えを伺った後に、畑の様子、作物の出来具合いにふれて、なるほどと思ったりもします。そのなるほどは、そこにその考えを認めること、そう考えるその人を見直すことでなくしてなんでしょうか。

 すなわち、畑にも、作物にも、つくる人、育てる人の考えがこもります。もしくは顕れています。そもそも、自然には畑も作物もありません。畑も作物も、人が、つくる、育てるという考えをもって、つくり、育てるものです。言い換えれば、その、つくる、育てるという考えが、人において、まさに目的というかたちをとります。そして、考えが目的というかたちをとるのは、まさに見てとるかぎり、ひとり人のすることにおいてのみです。

 ついでですが、『自由の哲学』の章立ては、一から七の章が、人の法則、もしくは、人という考えを、八から十四の章が、人のすることの法則、もしくは、ひとりの人がますますひとりの人となるという考えを、まさしく現実的に巡っています。

 そして、お終いの段です。

 

 二元論は世と自然の目的を云々したりもする。わたしたちの覚えにとり、因と果の法則どおりの結びつきがあらわになるところにおいて、二元論者は、こういう思い設けをしたりもする。すなわち、わたしたちが視るのは、絶対的な世のものがその目的を現実にするというかかわりの、たんに写し絵にすぎないとか。一元論にとっては、絶対的で、生きられはせずに、ただに仮の想いをもって推し量られる世のものとともに、世と自然の目的を思い設けるための基も抜け落ちる。

 

 まさに見て、まさに考えるところからは、世と人を説き明かすのに、(ぬばたまの)絶対者を思い設けるべきいわれは、どこにも見当たりません。