· 

略伝自由の哲学第十二章 a

 この回から十二の章に入ります。章のタイトルは「モラルのファンタジー」であり、また「ダーウィニズムと人の行ない」というサブタイトルが付されています。

 まずは一の段です。

 

 自由な精神は、みずからの志に沿って振る舞う。すなわち、その志は悟りであり、みずからのイデーの世のまるごとから考えるによって選ばれている。不自由な精神にとっては、なぜ、みずからのイデーの世からひとつの定かな悟りを取りだし、振る舞いのもとへと据えるのか、そのことの基がみずからに与えられてある覚えの世のうちに、つまり、みずからがそれまでに生きてきたことごとのうちにある。その精神はこころを決める前に、だれかがみずからのと似たケ一スでしたこと、あるいは、するのがいいといったこと、あるいは、神がそのケ一スに向けて命じたことなどを想い起こし、それに沿って振る舞う。自由な精神にとっては、そうした前提条件が振る舞いへのただひとつの意気込みなのではない。その精神ははじめもはじめのつもりをつかみとる。そこにおいては他の精神がそのケ一スでしたことも、そのケ一スに向けて命じたことも、その精神を煩わしはしない。その精神はまぎれのないイデーとしての基を有し、その基がみずからを動かす。すなわち、みずからの〈考え〉の集まりから、まさにひとつの定かな〈考え〉を取りあげ、振る舞いへと移すべくである。その振る舞いは、しかし、覚えられる現実に属するようになる。すなわち、その精神が仕立てることは、まったく定かな覚えの内容と同じになる。その〈考え〉は具象的なことにおいて実現する。その〈考え〉が〈考え〉としてはそのことをもちこたえることができない。その〈考え〉がそのことに重なることができるのは、たとえばライオンの〈考え〉がいちいちのライオンに重なるように、およそひとつの〈考え〉がひとつの覚えに重なるのと同じ趣においてこそである。〈考え〉と覚えのあいだの一節が想いである(六の章の三の段以下を見ていただきたい)。不自由な精神にとっては、その一節があらかじめ与えられてある。モチーフがあらかじめ想いとして意識のうちにありあわせている。その精神がなにごとかをなそうとするにおいては、そのことを、みずからがかつて視たとおりに、あるいは、いちいちのケ一スに向けて命じられるとおりになしとげる。それゆえ、権威がもっともよく働きかけるのは、例によって、つまり、まったく定かないちいちの振る舞いを不自由な精神の意識に伝えるによってである。キリスト者が振る舞うのは、救世主の教えに沿ってであるよりも、むしろ救世主を手本にしてである。規則が値を有するのは、ポジティブに振る舞うことに向けてであるよりも、定かな振る舞いを押さえることに向けてである。法があまねき〈考え〉のかたちで立ち現われるのは、法が振る舞いを禁じるときであって、振る舞いをするようにと命じるときではない。するべきことについての法は、きっと、不自由な精神へと、まったく具象的なかたちで与えられる。すなわち、あなたの家の前の道はあなたが掃除されたし。あなたの税を、しかじかの額、なになに税務署に収められたしなどなど。法が〈考え〉のかたちをとるのは、振る舞いを阻むに向けてである。すなわち、なんじ盗むなかれ。なんじ姦淫するなかれ。しかしまた、その法が不自由な精神に働きかけるのは、具象的な想いに目を向けさせることによってこそである。たとえば懲役何年という想い、あるいは良心の呵責という想い、あるいは永久追放という想いなどなどにである。

 

 ちょっと文法の本から引きます。ちょっとばかり具象的に話を進めてみようとの思いからです。

 

父親「おまえ、大学へは行くのか。」

息子「・・・・・・。」

父親「行かないのか。」

息子「・・・・・・。」

父親「黙ってないで、なんとか言いなさい!」

息子「・・・・・・。」

父親「考えが、まあだ、まとまってないのか!」

息子「・・・・・・。」

 

 この例に見られる「・・・・・・。」は、「叙述」を欠く「陳述」だけの文である。この種の表現を「沈黙文」という。文としては、極めて特殊であるが、先にも述べたように、日常生活では珍しいことではない。とすれば、文の不可欠の要素は「陳述」ということになる。(小池清治『現代日本語文法入門』ちくま学芸文庫)

 

 右に選ばれている文例を、いわゆる進路を決めるよう求められている息子と、それを求めている父親のあいだのこととして、広く(一般的に、つまり個別的な事情をさしおいて)とらえた上での話ですが、つまり、父親も息子も、いうならば「みずからのことは、みずからで考え、みずからで決める」という、あまねき考えをつかみとり、そもそものつもりとしてもちあわせているとしての話ですが、父親の「おまえ、大学へは行くのか」「行かないのか」に対する息子の「・・・・・・。」は、それを決められないでいるか、すくなくても、それについてなにかを叙ベることになんらかの躊躇(ためら)いがある息子の〈わたし〉のことをありありと陳べています。そして、父親の「黙っていないで、なんとか言いなさい!」は、息子の様子を叙べるとともに、いくらかじれったさのようなものを感じている父親の〈わたし〉のことを陳べています。

 すなわち、「述」に「陳」と「叙」があり、文はまずもって「陳」によるというのが、現代日本語文法上の大きな発見です。(ちなみに、それは現代ドイツ語文法でも同じです)。

 さらに『自由の哲学』からは、こうも言うことができます。「陳」は、あまねき考えに重なり、「叙」は、いちいちの想いに重なり、「述」は、「陳」も「叙」も覚えとして仕立てられ、加えて「文を成立させる統覚作用」は、「陳」と「叙」の相侯った「述」において、ひとしおきわだちます。

 さて、父親が述べる「考えが、まあだ、まとまつていないのか!」は、きっと、息子をなおさらに押し黙らせます。その文は「!」で結ばれていることからすると、問いの文ではなく、情を湛える文です。その文は、あえて翻訳してみるなら「おまえは考えるカが足りない!」「おまえは頭がわるい!」と、嘆くような、責めるような父親の〈わたし〉の情を陳べています。その「陳」に、わけても若者の〈わたし〉は敏感です。息子の〈わたし〉は、その「陳」に権威の臭いを嗅ぎとり、むっとします。(ついでに「!」は、いわば「尾を引く情を一旦断ち切り、次の「叙」へと切り換える」身ぶりを象ったものだそうです。)

 ひょっとすると、その「陳」は「考えをまとめる」ということについて、父親みずからがつねづねに抱かされる悲喜こもごもの想いからなされているかもしれません。父親はそのような「陳」を、たとえば上司からたびたび浴びせられて、秘かに嘆いたり、同僚同士で上司のことを愚痴りつつ叙べあって、溜飲をさげたりしているかもしれません。

 そのことはまた息子の学校生活についても言えるでしょう。いまの学校での授業は(体育の授業でさえ)、なによりも頭をつかうことを強いるでしょうから。それに息子は大学へ行くか行かないかを決められないでいようとも決めていようとも、なにも考えてないわけではありません。息子には、きっと、みずからなりの考えがあります。ひょっとしたら、親しい友達には、みずからの想いのたけを、きちんと叙べているかもしれません。

 とにかく、「叙」が憚りなくやりとりされるのは、なによりも同じものごとにじかに向き合っている人と人のあいだにおいてです。言い換えれば、想いがすんなりと取り交わされるのは、とりわけ同じものごとについての直接の覚えをもちあわせる人と人のあいだにおいてです。では、そのかぎりでない人と人のあいだで想いがすんなり取り交わされるには、なにが欠かせないでしょうか。

 で、いまひとたび、はじめにもどります。父親その人にも、息子その人にも「みずからのことは、みずからで考え、みずからで決める」というつもりが、その人の真っ先のつもり、その人のそもそもの考えとしてありあわせます。そのかぎりでは、父親その人も、息子その人も、自由な精神であり、互いに認めあうことができます。(「はじめもはじめの」に当たるのはerstであり、「第ーの」という意です。なお「つもりEntschlß」については、7-c-1, 7-c-2の回を見てください。)

 さらに、二の段がこう続きます。

 

 振る舞いへの意気込みが、あまねき、〈考え〉のかたちでありあわせるや(たとえば、共なる人に善きことなすべし。あなたの幸いが最も良く促されるように生きるべし)、きっと、いちいちのケ一スにおいて振る舞いの具象的な想い(〈考え〉と覚えの内容の重なり)がいよいよもって見いだされる。自由な精神、手本や罰への怖れなどによって駆り立てられはしない精神においては、そのとおり〈考え〉を想いへと移し変えることが、つねに欠かせない。

 

 人が悟りつつつかみとる、あまねき考えからの、そもそものつもりは、いちいちの覚えに重なって、覚えられる現実となり、想いとなります。その人、すなわち自由な精神は、そのつもりから、それなりの定かな覚え(もしくは象)を迎えつつ、内にそれなりのことを起こすによって、自由の考えを自由の想いに仕立て、外にそれなりの振る舞いを繰り出すによって、自由の現実を仕立てます。そこにおいては、ありあわせの想いも、ありきたりの考えも、二の次の元手、副次的な要素です。

 すなわち、はじめに立ち返れば、息子その人にとっても、父親その人にとっても、周りの定かな覚えとの、あらためての出会い、および新たな覚えとのフレッシュな出会いこそが、次なるステップです。つまり、つねづね〈わたし〉は〈わたし〉ならでは、なにを見ているのかという問いこそが、引き続き生じているはずです。父親その人と、息子その人が、ともにその問いをもちあわせればこそ、互いに出会うことができます。そして、その出会いは、まさしく新たな出会いです。(ちなみに「?」は問いの文のお終いに付けられる印ですが、もともとは、いうならば「みずからを開き、答えを受けとるべく待つ」ありようを象ったものだそうです。)

 そして、三の段です。

 

 人がみずからのイデーの集まりから具象的な想いを産みだすのは、まずファンタジーによってである。自由な精神がみずからのイデーを現実にし、みずからを貫くのに欠かせないのは、すなわちモラルのファンタジーである。それは自由な精神の振る舞いの源である。それゆえ、また、人がモラルのファンタジーをもってこそ、行ないにおいて生産的である。たんにモラルを説く人、つまり、行ないの規則をくどくどと紡ぎだしても、それを具象的な想いにまで凝らせることができない人は、モラルにおいて生産的ではない。その人は批評家、つまり、芸術作品がいかなるものであるべきかをそつなく論じることをわきまえていても、みずからではいささかもつくりあげることができない人と同じである。

 

 いちいちの覚えを迎えつつ、〈わたし〉の悟りから、どう向かうことができるかと問うにおいて、想いを仕立てる力が繰り出します。その力、ファンタジ一は、いわば相(もしくは像)を産みだしつつ想う力であり、いうところのモラルは(9-b-1)、行ないの規範ではなく、行ないそのもののことです。(「凝ごらせる」に当たるのはerdichtenであり、er〈まさに〉clicht〈厚いくする、濃くする〉です。)

 またまたはじめに戻って、「おまえ、大学へは行くのか。」は問いとして陳べられ、受けとられてこそ、自由な「陳」ですし、それへの答えはファンタジ一によって叙べられ、受けとられてこそ、自由な「叙」であり、その「陳」と「叙」によってこそ、自由な語らいがなりたちます。(ちなみに「。」は「陳」を終える印です。そして、どの文も三通りに陳べることができます。たとえば「行かないのか。」「行かないのか!」「行かないのか?」その違いは、なによりも抑揚の違いであり、そもそもにおいて知・情・意のいずれが先立つかによっています。はたして父親の「おまえ、大学へは行くのか」と息子の「・・・・・・。」は、一応「。」が付いていますが、その抑揚は、その三通りのいずれでしょうか?)