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略伝自由の哲学第十二章 c

 この回は十二の章の九の段からです。

 

 ここに代表される見解は、いまの自然科学の基の教え、すなわち進化論と呼ばれるものとかちあうように見える。しかし、それはそう見えるだけである。進化ということの下にわきまえられるのは、後のものが先のものから自然法則の道においてリアルに出てくることである。オーガニックな世での進化ということのもとに人がわきまえるのは、後の(より完成された)オーガニックなかたちが先の(完成されていない)それのリアルな子孫であり、自然法則に従って先のそれから出てきているという事態である。オガニックな進化論を認める人なら、きっと、そもそもにおいてこう想うであろう。すなわち、地球には、かつて、それなりの時期があり、もし、あるものが見るものとしてそこに居合わせることができ、それなりの長い寿命を授かっていたとしたなら、原羊膜類から爬虫類がおもむろに出てくるのを、目をもって追うことができたであろうというようにである。同じく、進化論者は、きっと、こう想うであろう。すなわち、もし、あるものが果てしなく長い時をつうじ、世のエーテルの領域において、それなりの場に留まりつづけることができたとしたなら、カント・ラプラス原星雲から太陽系が出てくるのを見ることができたであろうというようにである。そのような想いにおいては原羊膜類というものも、カント・ラプラス原星雲というものも、きっと、物質主義者が考えるのとは違ったように考えられていようが、ここではそのことをとやこうするまでもなかろう。しかし、進化論者にとっては、たとえ爬虫類を視たことがなくても、原羊膜類という〈考え〉から爬虫類という〈考え〉をその性質という性質もろとも引き出すことができると言い立てることは、想いもつかないことであろう。同じく、カント・ラプラス原星雲という〈考え〉がじかに原星雲の覚えをもって定かに考えられるからといって、その原星雲という〈考え〉から太陽系が導き出されてはなるまい。言い換えるなら、進化論者は、首尾貫して考えるなら、きっと、こう言い立てる。すなわち、進化の先の局面から後の局面がリアルに生じるのであり、わたしたちは、完全ではないものという〈考え〉、および、完全なものという〈考え〉が与えられてあるにおいて、そのかかわりを見抜くことができるというようにである。しかし、進化論者は、先のものから得られた〈考え〉があれば十分であり、そこから後のものを進化させることができるとは、決して認めてはなるまい。そこから倫理学者にとっては、このことが出てくる。すなわち、倫理学者は、なるほど、後のモラルの〈考え〉と後のそれとのかかわりを見抜くことができるが、しかし、ただのひとつたりとも後のモラルのイデーを先のそれから引き出すことはできない。ひとりの人はモラルにおけるものとして、そのものの内容を産みだす。その産みだされた内容が倫理学者にとっては、まさに与えられてあるものであること、自然を研究する人にとって爬虫類が与えられてあるのと同じである。爬虫類は原羊膜類から出てきているが、しかし、自然を研究する人は原羊膜類という〈考え〉から爬虫類という〈考え〉を引き出すことはできない。後のモラルのイデーは先のそれから進化するが、しかし、倫理学者は先の文化期の人の行ないの〈考え〉から後のそれを引き出すことはできない。混乱が呼び出されるのは、このことからである。すなわち、わたしたちが自然を研究する人としては、事実をすでに迎え、後からいよいよ見てとりつつ知るのに対し、わたしたちが人として振る舞うにおいては、事実をいよいよみずからで創りだし、後から知る。行ないの世の秩序の進化のプロセスにおいては、自然が低い次元において仕立てることを、わたしたちが仕立てる。つまり、覚えられるところを、わたしたちが変える。すなわち、倫理の規範は、さしあたり、自然法則のごとくに知られるのではなくて、きっと、創りだされる。それはいよいよありあわせているにおいて、知るの対象となりうる。

 

 いわゆる科学が科学たりうるのは、そもそもにおいて人が見る、ないし覚える(観察)をもとに考える(論証)によってであり、その当否は覚えに重なる考え(法則)が見いだされる(発見される)か否かによります。そして、覚えは与えられてあるところ(所与)であり、科学における考えも、与えられてある覚えについて見いだされるという意味において、与えられてあるところです。さらに、科学が仮説や推論を用いるのは、どこかに与えられてあるであろう覚えが、なんらかのはずみや創意工夫によって見いだされるであろうとの見込みや願いからです。(「引き出す」はheraus〈外へと〉holen〈もってくる〉、「導き出す」はab〈引き離して〉leiten〈導く〉であり、ともに仮説、推論のうちです。なお『自由の哲学』はファンタジ一を用いても、仮説や推理は用いません。)

 たとえば、石英と水晶を見比べて、結晶という考え(法則)が見いだされ、種、芽、根、茎、葉、花、実を見比べて、成長という考えが見いだされ、幼虫、蛹、蝶を見比べて、変態という考えが見いだされ、恐竜の化石と鳥類の化石を見比べて、進化という考えが見いだされます。もし、その昔、すこぶる性能のいいカメラが、すこぶる長いあいだ恐竜を映していたとすれば、いま、その映像を早送りすることで、鳥類の誕生をつぶさに見ることができるでしょうし、その映像はきわめて科学的であると評価されるでしょう。その「もし」の中身はファンタジーにほかなりませんが・・・。さらに、江戸の文物と明治の文物を見比べて、文化の変遷という考えが見いだされます。その考えも法則であることは、成長という考えが法則であることと、そもそもにおいて変わりはありません。その意味においては、人の行ない(モラル)と、その時代につれての推移を研究すること(倫理学、精神史)も、自然科学に劣らず科学です。(「進化」に当たるのはEntwickelungで、「成長、変遷、推移、展開」といった意であり、これまでは「繰り出し、育ち」と訳してあります。また、そのことばはevolutionとも通じあいます。ちなみに哲学事典で「進化」を引くと、こうあります。「evolveは、『巻物を開き進む』の意を表わすラテン語のevolvereを語源とし、ケンブリッジ・ネオプラトニストたちによって『歴史の展開』の意に使われはじめ、やがて自然哲学の分野で生物学的な内容を与えられるようになった。しかしその場合、胚の発生過程や、幼虫から成虫への進展過程など『生活史の展開』の意であったが、19世紀前半ラマルクの種の変遷説をライエルがevolution(進化)とよんで以来、生物の種の変遷をさすようになった。『種』の概念は、現在では、染色体の数と種類によって一応の規定を受けるが、『種』が造物主の創造以来固定されたとする創造説の理念に対し、下等な種から高等なものへ、発展してきたと考えるのが進化の根本理念であり、これは、アリストテレスなど、古くから存在した。」)

 すなわち、人はある面において鉱物であり、またオーガニックなもの(生物)であり、ダイエットの規則も、忍耐は要りますが、功を奏しますし、さらに動物のようにも行動し、またコミュニティに属するものとして、与えられてある考え(規範)をもって振る舞いもしますが、そこにおいて見いだされる考えは、いずれもあまねく同種、同類のものに重なり合う考えです。はたしてダーウィンの著作『種の起源』は、そのタイトルどおり、かくかくの種がしかじかの種から生じてきたということ、言い換えれば、自然がかくかくの種からしかじかの種を創りだしたという事実を巡るものです。そして、まさにひとりの人が振る舞うにおいては、振る舞いの想いがまさにその人によって産みだされます。言い換えれば、まさにその人が振る舞うという事実を創りだします。その意味において、まさにひとりの人の振る舞いは、ひとつの種に相当します。すなわち、まさにひとりの人のバイオグラフィーは、その意味において掛け替えのないものです。

 十の段です。

 

 しかし、わたしたちは、新しいものを古いものをもとに量ることもありはしないだろうか。どの人も、みずからのモラルのファンタジーによって産みだしたものを、在来の行ないの教えをもとに量るよう強いられてはいないだろうか。人の行ないとして産みだされつつ顕われるものにとって、そのことが当を得ないことであるのは、もうひとつのこと、つまり、人が新たな自然のかたちを古いそれをもとに量ろうとして、こう言うのが当を得ないことであるのと同じである。すなわち、爬虫類は原羊膜類と一致しないから、まっとうでない(病的な)かたちであるとか。

 

 たとえば、恐竜と鳥類を見比べて、恐竜が鳥類の祖先であると言う人はいても、鳥類はけしからんとか言う人は、ほとんどいないでしょう。しかし、ことに人の行ないについては、えてして古いものが物指しとされ、新しいものが異常や異端のごとく見なされがちです。そもそも、わたしみずからを省みると、なにごとかをするのに、しきたりやら常識やら「空気」やらがしがらみとなり、当のことをまさしくこととして立てることができかねていたりもします。

 十一の段です。

 

 すなわち、倫理のインデイビジュァリズムは、ふさわしくわきまえられた進化論と対し合うのでなくて、じかにその論から出てくる。原動物からオーガニックなものとしての人へとのぼりゆく、ヘッケルの系統樹は、きっと、自然の法則性を断ち切ることなく、また、ひとつづきの進化ということに穴をあけることなく、定かな意味において人の行ないをするものとしての、ひとりの人にまで辿れるはずのものである。しかし、先立つ趣のものから後に続く趣のものを導き出すことは、決してなされることなしにである。まこと、ひとりの人の行ないのイデーが、覚えられるところとしては先人のそれから出てきているが、しかし、同じくまこと、ひとりの人は、みずからでモラルのイデーをもちあわせるのでなければ、人としての行ないにおいて非生産的である。

 

 「繰り出すentwickeln」「巻物を開き進むevolve」という考えは、古くからありますが、十九世紀に新たに産みだされた「進化evolution, Entwickelung」という考えには、人がもろもろの覚えを見比べる(それなりの素材を選び、検討する)によって、古い種から新しい種が生まれることの法則性を見いだすという考え(方法)が含まれます。そして、その考えは、人がひとりひとりの人の行ないを見比べるによって、さらに新たに産みだすことができます。すなわち、オーガニックな人(ヒトという種)に続いて、ひとりひとりの人の行ないという、いわば新たな種が、ひとりひとりの人の産みだしたものとして、まさに意識的に見いだされます。(ついでに「混故知新」は、辞書を引くと「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」だとあり、そのもとである「温故而知新、可以為師英」については「古い事柄も新しい物事もよく知っていて初めて人の師となるにふさわしいの意」とあります。)

 さて、この回の終わりには、佐倉統『進化論という考えかた』講談社現代新書から、そのまえがきの部分を引きます。

 

 現在でも、ダーウィンの進化論を批判する言説は後を絶たない。だが、説得的なものは多くない。理論や概念を誤解しているか、自然選択の力を過少評価しているか、ひどいのになると、ただ単に感情的に反論しているといったものが・・・。

 これが進化生物学以外の領域、たとえば、社会科学や哲学などになると、さらに悲惨である。「進化論」といっただけで拒絶反応を示す社会学者は少なくないし、教育学のように人間の生物学的な背景を論じること自体がタブーのようになっている分野もある・・・。

 乱暴ないい方だが、ぼくはこの本を書くときに、常には「科学的」であろうとは心がけなかった。それよりも、言葉がみなさんに届くように、わかりやすく、おもしろく、そして刺激的であるように心がけた。もちろん事実を曲げて書いたところはないが、素材の選び方の基準が、学会の定説や通説とは異なるところも少なくない。科学的であることもある。だが、そうでないこともある。ぼくという人間が常に科学的ではないのと同じことである。