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略伝自由の哲学第十二章 d

 前の回のお終いには佐倉純『進化論という考えかた』のまえがきを引きました。それは ーすでにタイトルからも知られるようにー 著者が進化論における考えのありように意識的であること、ひとりの人としての科学者の意義をありのままに見積もろうとしていることに、略伝の書き手が共鳴したためです。なお、二の章のお終いの段はこうです。読み比べてみてください。

 

 覚悟のことだが、ここまで読んできたかたの多くは、わたしの論じるところが「科学の現在の水準」に適っていないと見なすであろう。それに対して、わたしはただこう応えることができるのみである。すなわち、わたしはここまで科学の成果にかかわろうとしたのではなく、だれもがみずからの意識において生きるところを、ただただ述べようとした。また、意識を世に折り合わせる試みについて、いちいちの論を引き合いに出したのも、ひとえにそもそもの事実をはっきりさせるためである。それゆえ、わたしはまた〈わたし〉、〈精神〉、〈世〉、〈自然〉といったいちいちの表現を心理学や哲学における習わしのように厳格に用いることにも重きを置かなかった日頃の意識は科学が設けるシャープな区分を知らないし、ただ日頃のことのありようを受けとることが、これまでのことの要であった。わたしにとって要は、科学がこれまで意識をどう解釈してきたかではなく、意識が意識そのものをおりおりにどう生きているかである。

 

 そもそも、みずからに意識的であるひとりひとりが科学を進化させてきたのであり、科学とふさわしく向き合うことができるのは、言い換えれば、科学を信じるとか、絶対のものとして担ぎ上げるとかではなく、世のもろもろを知ろうとする現代の、ひとりひとりの人の行ないとして迎えることができるのは、まさにみずからに意識的であるひとりひとりにほかなりません。

 すなわち、この回は十二の章の十二の段からです。

 

 わたしがこれまでに観るところをもとにして繰り出した倫理のインディビジュアリズムは、また進化論からも導きだされよう。つまるところの証は同じであろうが、ただ、その証が得られる道は異なる。

 

 わたしたちがここまでに辿ってきた道は、みずからの振る舞いにおける意識を、さまざまな面において、かつ、ありのままに受けとりつつ深める道です。その道のうえで、まさにひとりの人がまさにその人の行ないの考えを産みだすことが明らかになります。かたや、進化論においては、さまざまなデータをもとに論証することによって、種の進化の法則(考え)が引き出されます。また、動物の行動も、かつての人の行ないと、いまの人の行ないも、まさに同じ意味において論証のためのデータとなることができます。そこから、動物の行動の進化の法則と、種としての人の行ないの進化の法則が引き出されますそして、まさにその同じ方法をもって、種としての人のみでなく、ひとりの人の行ないも進化することが明らかになるでしょうが・・・。(原文はいわゆる接続法(仮定のモード)で記されています。『種の起源』が出てから149年、『自由の哲学』が出てから114年、進化論はまさに進化してきましたが、ひとりひとりの行ないが進化することは、いまだ進化論に取り込まれていません。言い換えれば、いまも「科学者」の多くは、ここにいう倫理のインディビジュァリズムを「非科学的」と見なすでしょう。しかし、進化論はこれからも進化するはずです。ちなみに、進化論のこれまでの進化が佐倉さんによって、こうまとめられています。

「二〇世紀初頭に再発見されたメンデル遺伝学とダーウィンの自然選択理論が、一九二〇年代の後半から集団遺伝学によって融合を果たし、それを基盤理論として一九四〇年代に現代進化理論の基本的な枠組みが形成された。以後、行動形質を研究対象に含むような領域の拡張(動物行動学)、包括適応度による利他行動の進化要因の解明(社会生物学)、分子レベルでの機構の解明(分子生物学)、情報科学との相互交流という大きな節目を経て、現代の進化理論は形成されている。」また、分子生物学については福岡伸一『生物と無生物のあいだ』講談社現代新書がお薦めです。そこでは分子生物学の進化をめぐり、生命についてみごとな考えが繰り広げられています。)

 十三の段です。

 

 まったく新たな行いの考えがモラルのファンタジーから出てくることが進化論にとってほとんど訝るに足らないこと、新たな動物の種が他の種から出てくることと同じである。ただ、その論は一元論の世の観方として、きっと、行ないの生においても自然の生におけるのと同じく、たんに推し量られただけの、イデーとして生きられない、彼岸の(メタフィジカルな)影響のことごとくを退ける。その論がそこにおいて則る原理は、新しいオーガニックなかたちの因を探し求めるにおいて駆使する原理と同じである。すなわち、その論は、世をよそにしたものが介入するということを拠り所にはしない。つまり、いちいちの新たな種をあらたな創造の考えに従い自然を超えた影響によって呼び出すものを拠り所にはしない。一元論は生き物を説き明かすにつき自然を超えた創造の考えを用いようがないように、その論にとっては、また、行ないの世の秩序を生きられる世のうちにない因から導きだすこともできかねる。その論は行ないに際しての欲するということを、行ないの生へと弛まずに及ぶ自然を超えた影響(神が世を外から統べる)とか、時の上におけることさらな顕れ(十戒のお告げ)とか、この地への神の現れ(キリスト)とかに帰することで汲み尽くされるとは見ないそれらのことごとによって人に、また人のうちに生じるところが、いよいよ行ないとなるのは、それらが人において生きられつつ、ひとりひとりのものとなるにおいてである。一元論にとって、人の行ないのプロセスは、ほかのありとあらゆるものと同じく世の産物であり、その因は、きっと、世のうちに、つまり、人が行ないの担い手であるゆえに、人のうちに探し求められる。

 

 そもそも、ものごとは覚えと考えの重なり合いです(五の章)。考えは覚えとの重なり合いにおいて生きられるところとなります(六の章)。その一元論の原理(考え) は、進化論の原理でもあります。すなわち、進化の法則(考え) の妥当性は、覚えとの重なり合いによって決まります。進化の法則はものごとにおいて見いだされ、ものごとから引き出されます。その意昧において、進化の法則は、自然のうち、世のうちに含まれるところです。よって、たんに考えられるだけの、いわゆる超自然的な因は、進化論から締め出されます。そして、人の行ないも自然のうち、世のうちです。 なるほど、人は宗教や歴史の伝える超自然的なものや、人へとじかに顕われるこの世ならざるものから振る舞いもしますが、なおかつ、それはその人がその振る舞いを悟るにより、考えるによって覚えと重ねつつ生きればこそのことです。その意味において、ひとりの人の振る舞いは、まさにその人により、まさにこととして、まさに世においてなされます。

 そして、十四の段です。

 

 もって、倫理のインデイビジュアリズムは、ダーウィンやヘッケルが自然科学に向けて打ち立てようとした建物の頂点である。それは行ないの生へと移されて精神化された進化論である。

 

 自然が新たな種を産みだすように、ひとりの人がまさにその人の振る舞いを産みだします。そのことをまさにこととして立てる倫理のインデイビジュアリズムは、生物進化論の進化したかたちで、精神(考え)の進化論です。(なお「精神Geist」については、ことにーの章を見てください。)