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略伝自由の哲学第十二章 e

 この回は十二の章の十五の段からです。

 

 自然のものという〈考え〉にあらかじめ狭く、欲しいままに限った分野をあてがっている人は、えてしてそのうちに自由なひとりの振る舞いのための場が見いだせなくなりがちである。首尾の通った手順を踏む進化論者は、そのような心の狭さに嵌ることがない。その論者は自然の進化のありようを猿のところで閉じつつ、人に「自然を超えた」源を認めることはできない。その論者は、きっと、人の自然の祖先を探し求めつつ、自然のうちに精神を探し求める。その論者は、また、人のオーガニックな営みのところで立ち止まって、それのみを自然と見なすこともできない。その論者は、きっと、人の行いの自由な生をオーガニックな生の精神における続きと観る。

 

 たとえば、自然保護ということが言われますが、その自然には、作物、家畜、ペット、および人が含まれているでしょうか。ひとつ確かに言えるのは、その自然に人は含まれていないことです。なにしろ、その自然を保護しなければならないまでに破壊しているのは、人にほかないのですから。それでは、さて、人がその自然を保護することは、自然を超えたことでしょうか、自然なことでしょうか。(「自然を超えた」に当たるのはübernatürlichであり、natürlich〈自然であることを〉über〈超えた〉というつくりで、「神」や「物自体」のことであり、さらに「世間」「人情」や「常識」「通説」「空気」もそのうちに含めていい場合があります。)

 ともかく、植物も動物も、さらにまた作物も家畜もペットも人も、それぞれに違いはありますが、オーガニックなもの(生き物)であることに変わりありません。そのオーガニックなものにおいて、人が進化の法則を見いだします。そして、その人によって見いだされた法則が、考え(精神)として人の有するところとなり、想いとして人の抱くところとなります。(ちなみに、一の章にはヘーゲルのこういうことばが引かれていました。「人に動物とともどもで授っているこころを、いよいよもって精神に仕立てるのは、考えるである。」)

 さらに、人はみずからの振る舞いの考えを、みずからで見いだしつつ、想いとして産みだしつつで、みずからの振る舞いをみずからのからだをもって仕立てもします。そして、そのとおり人がみずからの振る舞いを仕立てることは、自然が新たな種を、からだの目に見えるもの(物質における現実のもの)として産みだすごとくです。

 そもそも、自然というものも人によって見られるところであり、かつ、人によって考えられるところです。その意味において、考え(法則、精神)は自然のうちに含まれています。言い換えれば、人にとって、考えは自然のうちに潜みつつであり、かつまた、自然のうちに顕れつつであります。さらに言い換えると、自然のうちに含まれている考え(精神、法則)を、人は見過ごしもしますし、また、見いだしもします。(ちなみに、二の章にはゲーテのこういうことばが引かれていました。「わたしたちは自然のただなかに生きるも、自然にとってよそものである。自然は弛まずわたしたちと語らうも、その秘密をあかさない。」なおかつ「人はみな自然のうちにあり、自然は人みなのうちにある。」さらについでですが、それはゲーテのことばではないとも言われます。が、それはそれとして、そのことばはゲーテが語るまことを、しつかり言い当てています。いったい、だれが語ったのかもゆかしく知りたいところですが、とにかく、まことはだれが語っても、まことであることに変わりません。)

 たとえば、自然体というのが、そこそこに年を経た人の理想であったりします。逆にまた事実として、幼い人が育ちつつ自然に(おのずからで)考えるようになります。そして、人が自然のうちにありありと見いだす考えを、どうつかみとって意見とするのか、どうとらえて見解とし、見識とするのかが、いよいよもって人の身(からだとこころの結びつき)に懸かります。(なお、そのことは、ことに六の章において詳しく述べられています。)

 十六の段です。

 

 進化論者がその基(もとい)のとらえかたに則して言い立てることができるのは、ただにこうである。すなわち、いまの人の振る舞いは、世のことの異なる趣から出てくる。振る舞いの特徴、つまりは自由な振る舞いとしての定めを、その論者は、きっと、じかに見ることへと委ねる。その者はまたこう言い立てるのみである。すなわち、人はまだ人ではない祖先から進化してきた。人がいかに創りなされているかは、きっと、人そのものを見るによって確かめられる。その見るから出てくることごとは、ふさわしく見てとられた進化史とかちあいはしない。ただ、そのことごとは自然の世の秩序を締め出すものだという言い立てこそが、自然科学の新しい向きと折り合いがつかないだけである。

 

 進化論がいわゆる動物行動学によって進化し、動物の行動のかたちが進化することが認められるようになりました。しかも、それはたかだか1940年以降のことでした(12-d)。そして、そのことが認められるのとまったく同じく、人の振る舞いのかたちが進化することも認められます。すなわち、人が人の振る舞いをつぶさに見ることによってです。まさにその見ることによって、ついには、まさにひとりの人のする振る舞いのかたち、まさに自由な振る舞いの定かなありようも見いだされます。

 ただ、人が人というものについて、および、人の振る舞いということについて、すでに有している考えを欲しいままに操りつつ(三の章)、すでに抱いている想いを気ままにつくりかえつつで、自然を超えた原理を推し量り、想い設けている場合には、自然のうちにある人というものにおいて、および、自然をうちに有している人の振る舞いということにおいて、まさしくそのうちに含まれている考えを見いだすことができなくなりがちです。(「〈考え〉」に当たるのはBegriffであり、begreifen〈とらえる〉から来ています。「つかむ」に当たるのはfassenであり、それによって想いがつかまれます。ことに二の章と三の章を見てください。)

 十七の段です。

 

 みずからをわきまえている自然科学を、倫理のインディビジュアリズムはなんら恐れるには及ばない。見ることから、人の振る舞いのなりおおせたかたちの特徴として、自由が出てくる。その自由が、きっと、人の欲するに認められる。その欲するが紛れのないイデーの悟りを現実にするかぎりにおいてである。そもそも、悟りは見るへと外から働きかける必然によって出てくることではなく、それそのことで立つことである。人は、ひとつの振る舞いがそのようなイデーの悟りのおもかげであると見いだすにおいて、それを自由な振る舞いと感覚する。その振る舞いの徴のうちに自由がある。

 

 くりかえしになりますが、自然のうちには考え(法則、精神)が含まれています。だからこそ、その考えが人によって見いだされ、人にとってあらわになります。まさにそのことが、ふさわしくわきまえられた進化論においては、ひとしお意識されてわきまえられることになります。そして、そのことが意識されてわきまえられるにおいて、進化論はさらに進化していくことでしょう。(「なりおおせた」に当たるのはvollkommenであり、voll〈まるまるで〉kommen〈やって来る〉というつくりで、ふつう「完成された」というように訳されます。)

 いうところの悟りは、考えがあらわに顕れることであり、人がじかに見るによって、まさに考えを見いだすことです。それは、まさしく考えると見るの重なり合いであり、ひとえに精神のことであり、そこにはその人のからだのなりたちがかかわっていません。(ことに三の章と五の章を見てください)

 そして、人が振る舞いの悟りを、こころをもって感じつつ想いとして産みだし、からだをもって欲しつつ行ないとして仕立てるにおいて、その振る舞いが見られるところとなり、その悟りが偲ばれるところとなります。行ないの自由の感覚は、まさにその見ると偲ぶのうちに醸されます。(ことに九の章を見てください)

 

 さて、いつもでしたら、ここで回をあらためるところですが、次の号(リニューアル号)では十三の章からはじめることができるように、十二の章の残りの三つの段を引き続き取りあげたいと思います。おつきあいください。すなわち、まず十八の段がこうあります。

 

 さて、その立場から、さきに(一の章で)触れた二つの文の違いはどうなるか。すなわち、「自由であるとは、人が欲することをすることができることである」と「好みのままに欲しがることができるということ、および、欲しがることができないということが、自由意志というドグマのそもそもの意昧である」の二つである。ハマリングはまさに自由意志についての見解をその違いを基にして築きあげている。すなわち、はじめの文を正しいとし、二つ目を愚かな同語反復とすることによってである。かれは言う。「わたしはわたしが欲することをすることができる。しかし、わたしはわたしが欲することを欲することができるというのは、空疎な同語反復である。」わたしがするかどうか、言い換えれば、わたしが欲することを、すなわち、わたしがすることのイデーとして前に据えたことを、現実へと移すかどうかは、外のことのありようとわたしのテクニックの巧みさに懸かる(12-b)。自由であるとは、振る舞いのもとにある想い(動因)を、モラルのファンタジーによってみずから定めることができることである。自由でありえないのは、わたしの外のなにか(メカニックなプロセスや推し量られただけの、世の外にいる神)が、わたしのモラルの想いを定めるにおいてである。すなわち、わたしが自由であるのは、わたしがみずからでその想いを産みだすにおいてこそであり、ほかのものがわたしのうちに据えた動因を執り行うことができるにおいてではない。自由なものとは、みずからがふさわしいと観ることを欲することができるものである。みずからが欲するのとは異なることをする人は、きっと、その異なることへと、みずからのうちのではないモチーフによって駆り立てられている。そのような人は不自由に振る舞う。みずからがふさわしい、ふさわしくないと観ることを、好みのままに欲することができるとは、すなわち、好みのままに自由であり、不自由であることができることである。もちろん、それが愚かであること、自由を人が必然的に欲することをすることができる力のうちに視るのと同じである。しかし、その後者のことを、ハマリングは言い立てている。すなわち、かれは言う。欲するがつねに動因によって定まることは、まるまるまことであるが、しかし、だからといって人が不自由であるというのは、愚かなことである。そもそも、みずからの強さと決意のほどに応じてみずからを実現する自由よりも大きな自由は、望むべくもなければ、考えるべくもないと。 ー まさしく、それより大きな自由が望める。そして、それがいよいよまことの自由である。すなわち、欲するの基をみずからで定める自由である。

 

 ハマリングの言うことは、こうです。なにごとであれ人がしようと欲するのは、それなりの基があってである。その基はいずれであれ、そもそもにおいて人の他によって必然的に定まるのであり、人が好みのままに決めるのではない。よって、そのかぎりでは、自由を云々しようがない。自由は、せいぜい人が欲することを決意と強さに応じてすることができるうちにあるまでである。(「動因」に当たるのはBeweggrundであり、Beweg〈動きの〉grund〈基〉というつくりで、いわゆる動機のことです。すなわち、それは九の章にいう「モチーフMotiv」と「弾みTriebfeder」をともに指します。)

 しかし、ここまでに見てきたとおり、人は欲するの基をみずからで定めもします。すなわち、することを悟り、そこから明らかさをもってこころを決め、そこからファンタジによって定かにはからいつつで欲しもします。そして、その欲するこそが、いよいよもって自由という名に値します。さらに、その欲することを身をもって仕立てることができるかどうかは、身のもろもろと身の周りのもろもろとによります。

 そもそも、悟るはひとえに精神のことであり、そこに好みはいささかも混じりません。悟りは好かれようと嫌われようと、悟りの悟りたるところにいささかの変わりもありません。かたや、好みには、からだがかかわっています。好みは、からだのありようによって変わります。すなわち、ハマリングのいう自由は、まさに好みのままにとらえられた考え(見解)です。その自由はからだをもっての決意と力にまかせて言い立てられている、いわば苦しまぎれの自由もどきです。ただ、それはそれとして、ハマリングの決意と力のほどは、それとして讃えるに値します。ちなみに、かれのからだは長いこと病の床で苦しみを抱えつつありました。(「好みのままに」に当たるのはnach Beliebenであり、Belieben〈好み、気の向きに〉nach〈従って〉というつくりで、「気ままに、欲しいままに」といった意です。)

 十九の段です。

 

 欲することを執り行うのを見合わせることへと、人はもろもろの事情のもとで突き動かされる。するべきことを指図してもらうこと、すなわち、みずからではなく、ほかの人がふさわしいと観ることを欲することへと人が与するのは、人がみずからを自由であるとは感じないかぎりにおいてである。

 

 自由ということの要は、しよう欲することをすることができるということにあるのではありません。しようと欲していても、周りにそれなりのきっかけが整わなければ、あるいはまた、身にそれなりの力が欠けていれば、することを見合わせるにこしたことはありません。そもそも、することを見合わせるということも、することと同じく、まさに人そのもののすることです。(「見合わせる」に当たるのはvon…absehenであり、von…〈・・・から〉ab〈離れて〉sehen〈視る〉というつくりで、「思いとどまる」の意です。)

 自由ということの要は、欲するの基をみずからで見いだすことのほうにあります。なにごとであれ、ほかの人から受け取ったままで、あるいは、押し付けられたままで、みずからでは見いだしていない考えからすることには、たしかに好き嫌いという情がまつわってはいるものの、自由という感じが醸されはしません。

 ただし、もちろんのこと、ほかの人がさしだす考えにしても、それをあらためてみずからの考えとして見いだすことができます。(それについては、ことに9-d-1の回を見てください。)

 そして、二十の段です。

 

 外の力はわたしが欲することをするのを妨げもする。その力のせいでは、わたしがたんにしないでいるか、満たされなくなるだけである。いよいよ、その力がわたしの精神を従え、わたしの動因を頭から追い出し、そのかわりにその力の動因を据えようとするにおいて、その力の狙いとするところは、わたしの不自由である。教会は、それゆえ、たんにすることに対してだけでなく、ことに不純な考え、つまり、わたしの振る舞いの動因に対しても目をつける。教会がわたしを不自由にするのは、教会がさしだすのではない動因という動因が、教会にとって不純に見えるときである。教会、あるいは他のコミュニティが不自由を生みだすのは、牧師、あるいは教師がみずからを良心の支配者に仕立てる、つまり、信者がかれらから(聴罪師席から)振る舞いの動因を得なければならないときである。

 

 わたしはタバコをすいますが、ここでタバコをすってはいけませんというお達しは、それなりに受け入れます。また、タバコがからだによくないことも、それなりに分かります。が、タバコをすうということが不純なことだとは考えません。

 たとえば今から四十年ぐらい前には「不純異性交遊」という、なやましいことばがありましたが、幸いにも今は耳にしません。が、ときどき「純粋思考」ということばにお目にかかります。それは「紛れのない考え」で、それに対するのは「情や欲に紛れた考え」つまり「想い」や「欲い」です。それを「不純思考」と呼ぶこともできますが、その「不純」は「不純異性交遊」の「不純」とは異なります。