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略伝自由の哲学第十三章 c-2

 この回は十三の章の二十の段からで、まずはこれまでに見てとったことの、いわばまとめです。

 

 快がくだらない対象にまつわるからと、その快を少なめに見積もる人は、玩具工場のれっきとした収益を、その工場が子どものたあいもない遊びのための対象を作っているからと、四分の一の額にして帳薄につける商人と同じである。

 

 快、不快は感じられるところ、ないし感覚されるところであり、そこからすれば、なにによる快であれ快は快であり、なににまつわる不快であれ不快は不快です。その「なに」の値はまさにその「なに」の値であって、快、不快の値ではありません。たとえば、三ツ星イタリアンによる快も、ラ一メンによる快も、いずれ劣らず快です。

 二十一の段です。

 

 すなわち、たんに快と不快の量を引き比べるだけのことであれば、それなりの快の感覚の対象がイリュージョンであることをとやこうするにはおよばない。

 

 生きるにおいで快、不快のどちらが上回るかを調べるだけのことならば、快、不快が思い込みや思い設けによっているかどうかも云々するにはおよびません。たとえば、糠喜びの喜びがまさしく喜びであること、取り越し苦労の苦労がれっきとした苦労であるのと同じです。

 二十二の段です。

 

 ハルトマンが勧めている、生きるによって生じる快、不快の量を理性に沿って見てとる道をここまで辿ってみて、わたしたちはわたしたちの帳簿のひとつの側にはなにを、もうひとつの側にはなにを載せればいいかを知った。しかし、勘定はどのようにすればいいか。理性もまた決算をするのに適っているか。

 

 ここまでハルトマンによる快、不快の量の「理性的な」勘定のしかたにつきあってきて、こういうことが明らかになりました。すなわち、わたしたち人の生きるにおける快、不快の帳簿の快の側には、値の低いものごとによる快、思い込みや思い設けによる快、ならびにその快、不快を凌ぐことによる快(十九の段)が記されてしかるべきでしょう。

 そして、その快、不快を凌ぐことによる快には、いよいよもって紛れのない理性がきわだっていないでしょうか。言い換えれば、快、不快の感じ、感覚をそれとしてありのままに、もしくは明るく澄みやかに見通す理性がものをいっていないでしょうか。

 二十三の段です。

 

 勘定された所得が、仕事に費やされたことが追ってつきとめられる財産、ないしこれから費やされることになる財産と合わないのであれば、商人が決算において誤りをしていよう。また、ひねりだされた快の、または不快の上回りが感覚において追ってつきとめられないのであれば、哲学者がとにかく判断において誤りをしていよう。

 

 快、不快は感じられ、感覚されるところであるのはもとより、その感じ、感覚は後から追ってつきとめられるところでもあります。なお、快が生きるにおいて享受されるところであること、財産が仕事において享受されるのと同じです。(「追ってつきとめる」に当たるのはnachweisenであり、nach〈追って〉weisen〈示す〉というつくりで、「指摘、証明、紹介、案内」といった意です。「費やす」に当たるのはgenießenであリ、「享受する、楽しむ、飲み食いする」といった意です。)

 そして、追ってつきとめられない感じ、感覚というのは、判断にさいしてつくりなされたイリュージョンのほかではありません。(「ひねりだす」に当たるのはausklügelnであり、klügeln〈賢(さか)しらに〉aus〈もちだす〉というつくりで、「頭をしぽってあみだす」の意です。)

 二十四の段です。

 

 理性に沿って世を見てとることを支えとするペシミズムの決算について、わたしはさしあたりそれを監査しようとは思わない。しかし、生きるの仕事を続けるべきかどうかを決めろと言うのであれば、言われたほうとしては、いよいよもって、勘定された不快の上回りがどこに存するのかを追ってつきとめていただきたいというように求めよう。

 

 生きるにおいて不快は快を上回るという、いわゆる根暗な判断が、ハルトマンの経験に基づく「理性的な」判断でした。そう判断するのはハルトマンその人の勝手ですが、その判断をもとにして、生きるか死ぬかを決めよと迫られるのであれば、迫られたほうは、そもそも快、不快の感じ、感覚が、いつ、どこで、いかほどあったかを、ありていに示してほしいと言い返すのが筋ではないでしょうか。言い換えれば、判断よりも経験を確かめてもらうのが理に適っていないでしょうか。(「生きるの仕事」に当たるのはLebensgeschäftであり、Lebens〈生きるの〉geschäft〈用事、生業〉というつくりで、いわば「生きるということ」の意です。すなわち、人はただ生きるだけでなく、生きようとして生きますし、生きるが生きるに値するかを問いもします。)

 二十五の段です。

 

 そのことをもってわたしたちは、快の、または不快の上回りを理性が理性そのものから定めることができなくなる点、すなわち、その上回りを理性が生きるにおいて覚えとして示すことを要する一点に触れている。〈考え〉においてのみでなく、考えるによってとりなされる〈考え〉と覚えの(および情と覚えの)合わさりにおいて、人が現実へと行き着くことができる(五の章)。商人にしても仕事を止めようとするのは、経理人によって勘定された財産の損失が、いよいよ事実によって確かめられるにおいてである。そうでなければ、経理人に決算をやりなおさせよう。生きるのただなかに立つ人も、まさにそれと同じようにしよう。哲学者がその人に対して、不快は快よりもはるかに大きいということを証し立てようとしても、その人がそのことを感覚しなければ、こう言うであろう。あなたのくだくだしい思いには間違いがある。ことがらをあらためて考えていただきたい。しかし、ひとつの仕事において、ある時点で現実に大きな損失があり、信用が落ちて、債権者を満足させられなくなれば、たとえ商人が帳簿をいじって、ことを明らかにするのを避けようとも、破綻に見舞われる。同じく、ひとりの人において、ある時点で不快の量が大きくなり、これからの快への望み(信用)によって痛みを乗り越えられなくなるとしたら、きっと、生きる仕事の破綻へと行き着くであろう。

 

 考えは考えるから生じます(ことに三の章)。そして、ただの考えがリアルでないように、ただの覚えもリアルではありませんに(ことに四の章)。リアリティ、すなわち、ものごとは考えと覚えの重なり合いにおいて生じます(ことに五の章)。さらに想いが生じるのも、その重なり合いからからであり、さらにまたその想いをもって思うことがなされます(ことに六の章)。(ついでですが、「考えるdas Denken」によってじかに得られる、紛れのない考えが「悟りIntuition」と呼ばれ(五の章)、その悟りの技量が「理性Vernunft」と呼ばれます(九の章)。いうならば「紛れのない理性」です。なお、それとのかかわりで、なにかに取リ紛れて、そのなにかに囚われる理性を、「理性」というようにカギカッコつきで表しています。)

 そして、快、不快もまさにもののうちです。快、不快というもの、もしくは快、不快のリアリティは、覚えられ、かつ考えられるところであり、さらに想い起こすことによって追ってつきとめられるところでもあり、さらにまた思いによって操られるところでもあります。(「操るOperation」については、三の章を見てください。)

 さて、哲学者、ないし「理性」にかまける人ならばこそ、覚えに重なり合った考え(想い)を思いによって操りもするでしょうが、生きるのただなかに立つ人ならば、なによりも覚えと考えの重なり合い、すなわちリアリティにこそ与ろうとするでしょうし、また、そのリアリティをこそ想い起こしつつ追ってつきとめようとするでしょう。(「くだくだしい思い」に当たるのはgrübelnであり、Grube〈穴〉から来て、「掘る、穿つ、とやこう思いわずらう」といった意です。)

 では、ひとりひとりどの人も生きるのただなかに立つ人として、快は不快を上回るという感じ、感覚は、生きるの望みのことごとくを打ち砕くまでに、言い換えれば、生きるは生きるに値しないと判断して、生きるのを止めるまでにリアルでしょうか。(「望みHoffnung」も想いのかたちのひとつですが、ただし、覚えと重なり合った考えでなく、覚えと重なり合いつつある考えです。)

 二十六の段です。

 

 しかし、自殺者の数は、たくましくも生き続ける人の多さに比べて、はなはだ少ない。ありあわせる不快のゆえに生きるの仕事を止める人は、いたって僅かである。そこからどういうことが言えよう。不快の量が快の量よりも大きいというのが正しくないか、または、わたしたちが生き続けることを、感覚される快、不快の量にかかわりなく仕立てているかのどちらかである。

 

 ここまでは人の生きるの値を、快、不快によって「理性的に」勘定することのいかなるかを見てとってきました。また、その勘定は企業の経理に喩えられてきました。はたして、快、不快によって生きるの値を勘定するにおいても、損得によって企業の業績をはじきだすにおいても、いうならば「差し引き」の原理がもととなっています。

 しかし、不快が上回るゆえに生きるは生きるに値しないとして、生きるのを止める人は、はなはだ僅かです。また、なるほど、快が上回るようにと願う人は多いでしょうが、しかし、その願いがすっかり満たされる人も、おそらく僅かでしょう。そのように両極端に立つ僅かな人はともかくとして、そうでない人としては、快が上回ろうと、不快が上回ろうと、とにかく生きていこうとしていませんか。言い換えれば、快、不快の「差し引き」勘定は、生きるの原理たりえないのではありませんか。(「たくましくも」に当たるのはmutigであり、Mut〈起こるこころ、心意気〉から来て、「意欲をもって、勇気をもって」といった意です。はたして、こころが起こるのは、覚えと考えが重なり合うところからでなくしてどこからでしょうか。)

 おりしも、金融はグローパルに危機に瀕し、人という人の生きるに大きな波紋を及ぼしつつあります。そして、それは「差し引き」の原理のもと、頭がきれる「理性的な」人たちの思惑によって、儲けを引き出すためにソフイステイケートされた仕組みのかずかずが、機能しなくなったことに端を発しています。すなわち、その金融の仕組みのかずかずも、哲学の見解の多くも、同じく「理性」からあみだされてはいないでしょうか。(たとえば、哲学において「思弁」と訳され、経済において「投機」と訳されるのは同じことばで、Spekulation〈思惑〉です。)

 二十七の段です。

 

 まったくもって独自にエドゥアルト・フォン・ハルトマンのペシミズムは、生きるにおいて痛みが勝るゆえに生きるに値しないと説きながら、なおかつ、その生きるを耐えぬかなければならないと言い立てるにいたる。なぜ耐えぬかなければならないかというと、さきに言う(七の段)世の目的が、弛みのない、尽くしつつの人の仕事によってこそ達成されるからである。しかし、人はなおエゴイスティックな欲に従うかぎり、そのような、わたくしなしの仕事に与ってはいない。いよいよ経験と理性によって、エゴイズムから求める生きるの楽のかずかずが得られはしないものであることを確かに認めるにおいて、みずからをみずからのそもそもの課題に捧げる。そのようにペシミスティックな認めが、わたくしであることの源だというのである。ペシミズムに基づく教育がエゴイズムを絶やすのは、エゴイズムの儚さを目の前に据えるによってだというのである。

 

 ハルトマンは快、不快を「理性」に沿って値踏みしつつ、不快は快を上回り、人は苦を耐えぬかなければならないと言い立て、同じく「理性」に沿って世の目的を推し量りつつ、世における苦は神の苦であリ、神はみずからを苦から救うために世を生みだしたと説きます。よって、人はみずからの欲が満たされないものであることを知り、世と神のために、ある(存在)を絶やすことに尽くさなければならないということになります。(「なければならない」に当たるのはmüssenであり、「必然」というモードを表します(ことに一の章)。なお、「きっと」と訳してあるのもそれですが、ここでは「必然」のみか「命令」のモードも色濃いようですので「なければならない」と訳してみました。)

その見解はじつにユニ一クで、ハルトマンその人ならではありませんか。聞くところによると、かれはすこぶる几帳面な、悪く言えば頑な人柄だったようです。とにかく、人によっては几帳面に生きるのも快でしょうし、それがまさしくその人なりの生きかたでしょう。

 そして、ハルトマンの几帳面な推し量りから出てくる、人であることの道、人となることの道は、快、不快を理詰めではからい、快への欲が満たされないものであることを認めるところから歩まれます。(「教育」に当たるのはErziehungであり、Er〈まさしく〉zieh〈引き出す〉ung〈こと〉というつくりで、「育てるにとに人を)」の意です。「認める」に当たるのはanerkennenであり、an〈ついて〉erkennen〈知る〉というつくりです。)

 二十八の段です。

 

 すなわち、その見解によれば、快を求めての勤しみは、もともと人の自然に根ざしている。ただ、その求めが満たされないものであることを見抜くところから、その勤しみがより高い人であることの課題のために退く。

 

 ハルトマンの思いによれば、人はおのずからに快や楽を求めますが、その求めに沿って勤しむことは、世に適い、神に尽くすことではなく、いよいよその勤しみが満たされないものであると見抜かれて、その勤しみが控えられ、世に適い、神に尽くすことがなされます。(「自然」に当たるのはNaturであり、「おのずから」の意です(ことに二の章)。「見解」に当たるのはAnsichtであり、An〈ついて〉sicht〈視ること〉というつくりで、「思い」のかたちのひとつです。「見抜く」に当たるのはeinsehenであり、ein〈踏み込んで〉sehen〈視る〉というつくりです。)

 二十九の段です。

 

 ペシミズムを認めるところからエゴイスティックではない生きるの目標に尽くすことを望む、人の行ないと世をめぐる観方について、その観方がことばのまことの意味でエゴイズムに打ち勝つとは言うことができない。人の行ないの理想がしっかり強くなるのは、快を求めての身勝手な勤しみが満ち足りには行き着かないことを、いよいよもって人が見抜くにおいてだというのである。快のブドウをせつに欲しがる人が、そのプドウに手が届かなくて、そのブドウを酸っぱいと思いなす。その人がそのブドウから身を引き、わたくしなく生きるの歩みに身を捧げる。人の行ないの理想は、ペシミズムの意見によれば、エゴイズムに打ち勝つほどには強くない。しかし、その理想が主権を打ち立てるのは、さきだって身勝手の儚さについての知が切り開いた土壌においてである。

 

 ハルトマンの観方からすると、人が世に適い、神に尽くすという理想は、それとして力を欠く理想です。つまり、人がその理想を目指して勤しむには、みずからの快への欲、楽への求めが満たされないものであることを見抜くという、いわば助けがなければなりません。(「観方」に当たるのはAnschauungであり、An〈ついてschauung〈観ること〉というつくりで、「観」と訳されるのが習いです。「理想」に当たるのはIdealであり、ギリシャ語idea〈現われ〉から来て、いうならば「こころに働きかけ、こころをそそって起こす考え」です(ことに九の章)。「身勝手」に当たるのはSelbstsuchtであり、Selbst〈みずからへの〉sucht〈性癖、中毒〉というつくりで、いわゆる「自己中」の意です。)

 また、ハルトマンの言うとおり、人がみずからの快への欲、楽への求めが満たされないことを見抜くことから、世に適い、神に尽くすとしても、それは喜び勇んでであるよりは、苦く酸っぱい思いをもって、しかたなくしぶしぶながらか、さらには世を嘆き、神を呪いいっつではないでしょうか。(「意見」に当たるのはMeinungであり、meinen〈思う、言う〉から来ます。「人の行ない」に当たるのはSitteであり、「倫理」と訳されるのが習いです。それについても、九の章を見てください。)

 三十の段です。

 

 人が人の自然の素地に従って快を求め、その快が得られないのであれば、あるを絶やし、あらざるによって救われることが、ただひとつの理性的な目標であろう。そして、世の苦のそもそもの担い手が神であるという見解を人がとるにおいては、神に救いをもたらすことを、みずからの課題としなければなるまい。ひとりひとりの人の自殺によっては、その目標の達成が促されるでなく、阻まれよう。神が理性に沿って人をつくりなしたのであれば、その狙いはほかでもなく人が振る舞いによって神に救いをもたらすことであろう。そうでなければ、創造に目的が欠けよう。そして、人をよそにした目的について考えるのが、そのような世の観方である。ひとりひとりの人が、あまねき救いの業のうちに、みずからの定かな仕事を仕立てる。人が自殺によってその業から身を引けば、その人に割り振られていた仕事は、他の人によって仕立てられなければならない。他の人がその人に代わってあるの痛みを担わなければならない。そして、ものというもののうちに神がそもそもの苦の担い手として潜むゆえに、自殺者は神の苦の量をいささかも減らさずに、むしろ神に対して、その人の代わりをつくりなすという新たな難題をつきつける。

 

 この段はここまでつきあってきたハルトマンの、世と人についての思い(見解、意見)をつくりなす筋道です。(「あろう」「あるまい」は「仮定、伝聞、婉曲」といったモードでの言い回しである、いわゆる接続法二式に応じるための工夫です。)

 その筋道は人についで快、不快を値踏みしつつ、不快は快を上回ると思いなし、また、世についてのありあわせの想いになぞらえつつ、人の与り知らないもの(苦しむ神!)を思い設けることをもってこそ辿られています。(「人をよそにした」に当たるのはaußermenschlichであり、menschlich〈人の〉außer〈外の〉というつくりです。それについては、ことに七および十一のの章を見てください。)

 よって、その思いよると、世にとってひとりの人はもうひとりの人と入れ替えがききます。しかし、あリていに見てとるなら、ハルトマンがユニークな人であるのと同じく、世においてひとりひとリどの人も、多かれ少なかれ掛け替えのないひとりです。