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略伝自由の哲学第十三章 c-1

 おかしなことば遣いかもしれませんが、人の生きるの値は高いか低いか、人の生きるは生きるに値するかしないかという問いに取り組んでいます。

 なお、人の生きるの意味はなにか、さらに、人の生きるの意義は軽いか重いか、浅いか深いかという問いには、十一、十二の章で取り組んでいます。もちろん、その答えは、まさにみずからで問うてみる人こそが見いだします。

 そして、前の回で見てとったとおり、人の生きるの値を、いまの人の多くは、ほかでもなく生きるにおける快と不快(苦)の情をもって見積もるでしょうが、その生きるにおける快と不快の情には、それぞれ三通りあります。

 

 すなわち、快の側が上回るのか、不快の側が上回るのかを調べようとする人は、欲での快、欲を満たすでの快、求めて勤しむことなしに舞い込む快を勘定にいれることを要する。帳簿のもうー方の側に載るのは、つれづれからの不快、満たされない勤しみからの不快、欲しがらないのに押し寄せる不快である。・・。(十三の段)

 

 そして、この回では見積もられる元手に対する見積もるファクターとして、なにがふさわしいかという問いに取り組みます。(なお「ファクターFaktor」と「元手Element」については、ことに9-c-2の回を見てください。)

 すなわち、十四の段です。

 

 さて、こういう問いが生じる。その借り方、貸し方から決算をするのに、ふさわしい手立てはなにか。エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、はからう理性がそれだと言う。なるほど、かれは「苦しみや苦があるのは、感覚されるかぎりにおいてである」と言っている(『無意識の哲学』)。そのことからすれば、苦に当てる物指しは主の感じるのほかにない。わたしの不快の情の額が、わたしのうちの快の情と引き合わされて、喜びが余るか、苦しみが余るかは、きっと、わたしが感覚するところである。そのことを顧みずに、ハルトマンはこう言い立てる。「いちいちのものの生きるの値は、ひとえにそのものの、つまり主の物指しに沿って算定されるが、しかし、それはいちいちのものがそのものの生の情動のばるごとから正しい差し引き額を引き出すということでは決してない。言い換えれば、そのものの生についてのそのものの総合判断が、そのものの、つまり主の生きたことごとについての正しい判断であるということではない。」そのように言うことによって、情についての理性に則した判断が、ふたたび値の見積もり手に仕立てられる。

 

 さきにはショーペンハウアーの「哲学的」な論が引き合いに出されましたが、ここからはハルトマンの経験に基づく、「客観的」な論、つまり「科学的な」論を例にして話が進められます。快、不快はまさしく情として感じられ、感覚されるところです。しかし、いまの「科学」は情や欲を総じて「主観的」であるとし、判断に紛れ込ませてはならないとするのが習いです。言い換えるなら、感じる、感覚するというファクターは、快、不快の情という元手を「客観的」に見積もるのに適していないということになります。そして、つまるところ、快、不快の情という元手を「正しく」見積もり、「正確に」判断するには、ひとり「理性的」にはからう(考える)というファクターのみがふさわしいということになります。(「主の」に当たるのはsubjektivであり、ふつう「主観的」と訳され、さらに「主体的」とも訳されます。訳者はかつて「主体的」と「主観的」がともにsubjekt1vであることに気づいて、がっくりするとともに、すっきりするという感じを味わいました。それでsubjektivをたんに「主の」と訳せば、おそらく、けしからん、もってのほかだという人もいるでしょうが、しかしまた、やっぱり、そうなんだと、ことがらがなおさらはっきり分かる人もいるのではと思って・・・。なお「主Subjekt」と「客Objekt」については、ことに四の章を見てください。また「借り方」と「貸し方」に当たるのはSollとHabenであリ、「負債」と「資産」とも訳されます。これについてはどちらがどちらであり、なにがどちらに入るのかを、わたしはいまもって取り違えたりしています。いつもながらシビアな財務のことにしても、また、まさにアクチュアルな金融のことにしてもそうですが、いかがでしょう、本文での語の並びを見てください、その並びが意図的な並びであるとすると、快は借り方に入り、不快は貸し方に入リます。)

 十五の段です。

 

 エドゥアルト・フォン・ハルトマンのような考える人の思いの向きを、多かれ少なかれ引き立てる人は、生きるの値を正しく見積もるために、快と不快の決算について、わたしたちの判断を誤らせる元手を取り除かなければならないと信じもしよう。その人はそのことを二通りでなしとげようともするであろう。ひとつには、わたしたちの欲(もよおし、欲り)が情の値を判断することに混じって、醒めた判断を妨げるということを突き止めるにおいてである。仮にたとえば性の享受が禍いの源であると言わなければならないとしても、わたしたちのうちに性のもよおしが強くあることから、さほどでもない快をさほどであると思い過ごすべく誘われる。わたしたちは享受しようとするゆえに、享受が悩みの種となっていることを認めない。ふたつには、情を批判のもとに晒して、情のまつわる対象が理性の知の前にはイリュージョンであるということを突き止めるにおいてである。そして、そのイリュージョンが潰えるのは、わたしたちのつねに目覚めている知性がそれを見破る時である。

 

 ハルトマンのように「客観的」であろうとする向きをもつ人は、欲や情が判断にからんで、判断を歪めていないかどうか、および、情や欲が実際にはありもしない対象を生みだしていないかどうかに目をつけもするでしょう。言い換えるなら、判断にたとえば「欲目」や「僻目(ひがめ)」が絡んでいないかどうか、たとえばまた「思い違い」や「思い込み」が基になっていないかどうかに気をつけもするでしょう。(「・・・もしよう」に当たるのはKönnenであり、英語のcanに通じて、いわば「可能」というモード、「ありうる」という気持ちを表します。)

 たとえばですが、ラ一メンを食べるのに評判の店の前に並んで待つ人がいます。わた(この略伝の書き手)はその列を尻目に通り過ぎますが、それというのも、待たされるのがいやだし、ラ一メンはよほどまずい店ならともかく、どの店で食べてもそこそこにおいしいと思っているからです。が、並ぶ人にしてみればどうでしょうか。待たされるのがいやじゃないという人も、あると思います。また、待たされるのはいやでも、やつぱり、その店のラ一メンがおいしいから待つという人も、あると思います。さらにまた、評判の店にわざわざ並ぶことによって、その店のラ一メンがなおさらおいしく食べられるという人も、あると思います。

 さて、待つ人にしても、通り過ぎる人にしても、ラ一メンを食べることの快と苦について、ハルトマンの意味で「客観的」に判断するとしたら、どうでしょうか。ラ一メンはどこで食べても、そこそこにおいしいと思うのは、ほんとうにおいしいラ一メンを知らないからではないのか。逆にまた、評判の店のラ一メンは、それほどおいしいのか。たんに評判だということで、その店のラ一メンを買いかぶっていないか。そういったことをいちいち考えてみなければならなくなります。(「思い過ごす」に当たるのはvorgaukelnであり、vor〈前に〉gaukeln〈ちらつかせる〉というつくりで、「手品で出す」の意です。)

 十六の段です。

 

 その人はことがらを次のように考えもしよう。功名心をもつ人が、まさにその見てとることをする一時までのみずからの生において、快と不快のどちらが上回るかを明らかにしようとするにおいては、きっと、その判断の二つの誤りの源からみずからを自由にする。その人が功名心に逸るゆえに、その人のキャラクターのその基の質が、みずからの手柄が認めてもらえることの喜びを拡大鏡を通し、軽んじられることでの心の傷を縮小鏡を通して見せる。かつて、その人が軽んじられていると分かって心が傷つくのを感じたのは、まさにその人に功名心があったからであるが、思い起こされるその傷は、穏やかな光のうちに現れる。かたや、認めてもらえる喜びはその人に親しく感じられるため、その人にそれだけ深く刻まれる。さて、なるほど、功名心をもつ人にとって、それがそうであるのは、まことよきことである。みずからを見る一時において、取り違えは不快の情を和らげる。なおかつ、その人の判断は誤りである。ヴェールに覆われている苦を、その人は、実のところ、その強さほどで耐えなければならなかったのである。そして、その人はその苦を生の帳簿に、事実、誤って記す。正しい判断に行き着くには、功名心をもつ人がまさに見てとる一時に功名心からみずからを解き放たなければならないことになろう。その人がそれまでの生を、精神の目に眼鏡をかけずに見てとらなければならないことになろう。そうでなければ、その人は財務諸表を締めるに際して、みずからの仕事への熱意をも収益の側に記す商人と同じである。

 

 それぞれの人にそれぞれの向きや好みや欲があり、その向きや好みや欲から、ものごとを見つつ、みずから振る舞いつつ、さまざまなことを経験し、ときに喜びもすればときに悲しみもします。さらにまた、その向きや好みや欲に逸るゆえに、その喜びをひとしお喜ばしく思ったりもしますし、その悲しみをそれほどに意に介していなかったりもします。はたから見れば身勝手ということになるでしょうが、わが身にしてみればまさにそのおかげで、落ち込まず、へこたれずに過ごしていけます。ただ、わが身はそのことに気づいてはいません。

 が、ハルトマンの意味で快と不快を「客観的」に見積もるには、そのひとしおの喜ばしさを割り引いて思い、その意に介されていない悲しみを、それとして意に介さなければならないはずです。そして、そのためには、たとえ一時であれ、きっと、みずからの向きや好みや欲を、ありのままに見つつ、それとして認め、それにものをいわせないようにすることが、欠かせないことになるはずです。(「ことになろう」に当たるのはmüßteであり、müssen〈きっと・・・ということになる〉ことを、いわば遠回しに言っています。)

 そして、ハルトマンのように「客観的」に見ようとする向きも、まさに向きであることに変わりありません。しかも、その向きは、いまの人の多くが多かれ少なかれ持ち合わせていないでしようか。言い換えれば、いまの人の多くは、みずから(のからだ、こころ、精神)をまさしく客として迎える一時が、折りにふれてありはしないでしょうか。ついでに、ラ一メンの話に戻リますが、評判の店というのは、たいていラ一メンの求道者のような人がやってるのではないでしょうか。つまり、味もさることながら、味を研ぎすます研究をしているという評判が、客を呼んでるのではいないでしょうか。ラ一メンをたんに食べるだけ、すなおに味わうだけではなく、「評し」「判じる」向きが、店の主はもとより、客にもあるのではないでしょうか。そして、その「評する」「判じる」もそれなりに快をもたらしているのではないでしょうか。ただ、その分だけ、ただに味わうことからは隔たり、そこからの快が減りはしますが。

 十七の段です。

 

 しかし、その人はさらに先へと進みもしよう。その人はこんなふうに言いもしよう。功名心をもつ人はみずからが追い求める認めてもらえることが値のないことであると、明らかに知るようになるだろう。その人はみずからで、または他の人のおかげで、理性的な人にとっては人から認めてもらうことに重きがかかりようがないことを見抜くようになろう。というのも、「そのようなことがら、進化の問題ではなく、また、科学によってすでに最終的に解決されていることがらにおいては」、つねに「多数派が正しくなく、少数派が正しいこと」を確かに諾うことができるからである(『無意識の哲学』)。功名心をもつ人がそのように言うのであれば、きっと、みずからの功名心が現実として見せていたことごとを、よってまた、みずからの功名心のそれなりのイリュージョンにまつわる情をもイリュージヨンと呼ぶであろう。そのことを基にして、さらにこんなことが言われもしよう。生きるの値の帳簿からは、イリュージョンから快の情として生じるところが削られなければならないし、そうして残るところがイリュージョンの混じらない生きることの快の額であり、その額は不快の額に対して小さく、生きるは享受でなく、あらざるはあるに勝る云々。

 

 わたしたちはまた向きや好みや欲から、思い違いをし、思い込みをしていたりもします。そして、思い違い、思い込みによって、喜びもすれば、悲しみもしたりしています。

 さて、そのことについて、ハルトマンのいう「理性的な人」は、どのように言うでしょうか。「思い込み、思い違いは、イリュージョンであり、空しい。」ごもっともです。また、「イリュージョンにまつわる喜びも悲しみも、同じくイリュージョンであり、空しい。」はたしてそうでしょうか。さらには、「思い違い、思い込みのもとになる向きや好みや欲は、抑えつつ、たたきなおすべきである。」どうぞ、ご勝手に。

 そうでなくたって空しいことはかずかずあるのに、そういう「理性的な人」、はなはだしく説教臭い人にとって、この世はなんと空しさに満ちていることでしょうか。

 十八の段です。

 

 しかし、功名へのもよおしが紛れ込むことによる取り違えが、快の決算をするに際して誤った結果をもたらすことは、じかに明らかであるが、かたや、快の対象のイリュージョンたるところを知ることについて言われていることには、きっと、異が唱えられよう。現実的なイリュージョンであれ、思い過ごしのそれであれ、それにまつわる快の情を生きるの快の決算から除くことは、その決算をまさに誤らせよう。そもそも、功名心をもつ人は多くの人に認めてもらうことで現実的に喜びを抱いたのであり、それは後にその人がその認められることをイリュージョンと知ろうが、他の人が知ろうが変わりがない。享受された喜びの感覚は、それによっていささかも小さくならない。そのような「イリュージョナルな」情のすべてを生きるの決算から除くことは、情についてのわたしたちの判断を正しく立てるのではなくて、現実的にありあわせる情を生きることから消し去る。

 

 いうところの「理性的な人」、はなはだ説教臭い人にひきかえ、思い違い、思い込みをしている人は、そのことに気づいてはいませんから、それで空しさを感じることもありません。さらに、思い違い、思い込みにまつわる喜び、悲しみは、思い違い、思い込みに気づいても、喜び、悲しみであったことに変わりはなく、空しくなっていたりはしません。たとえば、糠喜びも喜びのうちですし、取り越し苦労も苦労のうちです。それを空しいとするのは、かえって思い込み、思い違いであり、理性的でもなければ科学的でもありません。ただ、いうところの「理性的な人」はそのことに気づいていません。説教臭さはそこから出てきますし、その説教はその人にとっては快でしょう。ともかく、快、不快の帳簿から、イリュージョンにまつわる喜び、悲しみは除くにおよびません。(なお「理性」については、ことに9-b-2の回を見てください。)

 十九の段です。

 

 そして、なぜその情が除かれるべきなのか。その情をいだく人においては、その情がまさしく快を醸す。その情を凌いだ人においては、その凌ぐということによって(どうだ、立派なものだろうという自惚れた感覚によってではなく、凌ぐということのうちに客として迎えられる快の源によって)なるほど、精神においてのではあるが、しかし、だからといって意義の劣りはしない快が出てくる。情が実のところイリュージョンである対象にまつわるゆえに快の決算から削られるにおいては、生きるの値が快の量によってではなく、快の質および快を引き起こすものことによって左右されるものに仕立てられる。しかし、いよいよわたしが生きるの値を、生きるがわたしにもたらす快、不快の量から定めようとするにおいては、ほかのなにかを、つまり、はたまたいよいよわたしが快の値のありやなしを定めるときのよりどころを前提してはなるまい。わたしが快の量を不快の量と比べて、どちらが大きいかを見ようと言うにおいては、快という快、不快という不快をその現実の大きさにおいて勘定に入れなければなるまい。快、不快のもとにイリュージョンがあるかどうかには、まったくかかわりなくである。イリュージョンに基づぐ快に、理性の前で申し開きができる快よりも、生きるにとっての少ない値をつける人は、まさしく、生きるの値を快とは異なるファクターによって左右されるものに仕立てる。

 

 「糠喜び」を辞書で引くと、「あてがはずれて、よろこびが無駄になること、また、そのようなつかの間の喜び」と出ています。が、あてがはずれて無駄になるのは、まさにあてのほうであって、喜びのほうではありません。その喜びは、なるほどつかの間であっても、やっぱり喜びです。そして、たしかに、あてがはずれるのは痛みですが、しかし、あてがはずれて、そのあてにすっきりと見通しがつき、そのあてに左右されることがなくなります。そのすっきりは、快でなくしてなんでしょうか。もちろん、痛みのほうに絡め取られれば、その快が見落とされることになりますが。(なお、さきの「借り方Soll」「貸し方Haben」は「簿記での慣用語」であり、いわゆる「貸し借り」には尽きないことが含まれています。それゆえ、ことばそのものからは分からないことも残るのですが、それでもそのことばが遣われていることには、それなリの意味もあります。そして、「借り方」「貸し方」に当たるラテン語はAktiva, Passivaであり、はたしで快は「糠喜び」の快も含めてアクテイブな面をもちます。)

 糠喜びを糠だからといって低く見積もる人は、生きるの値を快、不快の量ではなくて、快、不快の質と、快、不快を引き起こすものごとによって判断しています。たとえば、ラ一メンを食べることでの快は三ツ星のイタリアンを食べることでの快に劣るとか、食べることでの喜びは知ることでの喜びよりも低いとか・・・。そもそも、快、不快は感じられ、感覚されるところです。理性はその感じられ、感覚されるところの優劣、高低を云々するまえに、それをありのままに迎え、それと親しくつきあってこそ、いよいよ理性的ではないでしょうか。

 そして、「理性」は外のものごとと「客観的に」向き合うことによって、「科学」を生みだしますが、まさに同じく、理性は内なるものごと、情や向きや好みや欲をも客として迎えることができますし、そこから科学を生みだすことができます。科学は決して「少数派」のものではあリませんし、また、なにごとにしても「最終的に解決」しているわけではありません。