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略伝自由の哲学第十三章 g

 この回は十三の章生きるの値~ぺシミズムとオプチミズム~」の四十六の段の段からです。

 

 人の行ないの理想は人のモラルのファンタジーから湧きだす。その理想を現実にすることは、その理想を人が、苦と痛みを凌ぐに足るほど強く欲しがることに懸かる。その理想はその人の悟りであり、その人の精神が撓(たわ)めて漲(みなぎ)らせる弾(はず)みのバネである。その人がその理想を欲するのは、その理想を現実にすることがその人のこよなく高い快であるからである。その人は倫理学によって、まずは、快を求めて勤しむことを禁じてもらい、そして、なにを求めて勤しむべきかを命じてもらうことなど要しはしない。その人が人の行ないの理想を求めて勤しむのは、その人のモラルのファンタジーが十分に働きつつであり、その人の欲するに力を授ける悟りをその人のうちへと取り込み、その人の身のなりたちのうちある妨げ –また必然的に伴ってくる不快も妨げのうちである- に対し、どこまでももちこたえるにおいてである。

 

 覚えるから想うがあり、想いから考えが抽き出されます。そして、その抽き出すも考える働きのひとつです。そして、その道筋は、わたしたちがものごとを知る道筋です。しかしまた、わたしたちが振る舞うにおいては、いわばその逆の道筋がものをいいます。すなわち、考えるから考えが萌し、考えの萌し(悟り)が内へと取り込まれて想いが生じます。そして、その考えの萌しを内へと取り込み、想いを生みだす力が、ここにいう「ファンタジー」です。(「うちへと取り込む」に当たるのはeingebenであり、ein〈中へと〉geben〈与える〉というつくりで、「投与する、インプットする、吹き込む」といった意です。なお「ファンタジ一Phantasie」については、十二の章を見てください。)

 さらに、考えの萌しと、その道で生みだされる想いが意欲をそそり、漲らせます。そして、その意欲をそそり、漲らせる想いが、ここにいう「理想」です。よって、その「理想」が現実となるかどうかは、「ファンタジー」の働きいかんに懸かります。すなわち、その働きが強ければ、意欲はもろもろの阻みに抗して貫かれます。(「どこまでももちこたえる」に当たるのはsich durchsetzenであり、sich〈みずから〉durch〈通して〉setzen〈据える〉というつくりで、「自説を主張する、目的を達する、成果をあげる」といった意です。なお「弾みのバネ」については、九の章を見てください。)

 四十七の段です。

 

 高貴な理想を求めて勤しむ人がまさに勤しむのは、その理想がその人というものの内容であるからである。そして、それを現実にすることは、その人にとってひとつの楽となる。その楽に対して、倹(つま)しさが日々のもよおしを満ち足らせることから引きだす快は、ささいなものである。理想主義者は、みずからの理想を現実へと移しながら、精神において贅沢する。

 

 想いはひとりの人のものとなった考えです(六の章)。その意味において、ここにいう「理想」も想いに他なりません。また、その「理想」からそそられる意欲も欲であり、それが満たされて楽が生じることも、他の欲という欲に同じです。そもそも、振る舞うは、欲するからでなくしてどこからでしょうか。なるほど、倹約、すなわち欲を殺ぎ、僅かな楽で済ますことができるのも、ひとつの美徳でしょうが、しかし、「理想」を現実とすることによっで快を楽しむという贅沢も、同じく美徳ではないでしょうか。そもそも、徳というのは、ひとりの人によって体現される技量でなくしてなんでしょうか。

 四十八の段です。

 

 人の欲が満たされることでの快を絶やそうと欲する人は、きっと、人をまずは僕(しもべ)にする。つまり、欲するから振る舞うでなく、そう振る舞うべきであるから振る舞う人にする。そもそも、欲することを成し遂げることが快である。人が善と呼ぶことは、人がするべきことではなく、人が人の自然をまるまる、まことに繰り出すにおいて、人がしようと欲することである。そのことを認めない人は、きっと、まずは、人が欲することを人から締め出し、そして、人がみずからの欲するに内容として与えなければならないことを、外から決めてもらう。

 

 これまでショーペンハウアーとハルトマンの説を例にして見てきたとおリ、快を絶やし、欲を殺ぐべきであるという言い立ては、快と欲をおしなべて非理性的であると見なすところからでした。しかし、その「理性的なべき」は、まずもって、ひとりの人を強制し、矯正することでしかありません。その「べき」を立てる人は、まさに人というものの自然を見落としています。すなわち、まさにおのずからながら、人は欲するものであり、さらにひとりの人としてひとりなりに欲するようになりゆくものでもあります。そして、そのようになりゆくことも、また善きことでなくしてなんでしょうか。(「繰り出す」はentfaltenで、「折り畳まれているものを広げる」ことです。)

 四十九の段です。

 

 人が欲を満たすことに値を与えるのは、その欲がその人というものから湧きだすからである。成し遂げることが値を有するのは、そのことが欲されているからである。人の欲するがそれとして目指す目標に値はないという人は、きっと、値に満ちた目標を、人の欲しないなにかから取り込む。

 

 さきに見たとおり、快、楽の値は、もよおし、欲するを分母とし、得られた快、楽を分子とするかたちでつけられます。逆に、欲されていないところに値はつきません。そして、ことに人においては、分母としての欲、もよおしが、まさにひとりの人ならではのものです。

 五十の段です。

 

 ペシミズムを拠り所とする倫理学が出てくるのは、モラルのファンタジ一を見くびるところからである。ひとりの人の精神には求めて勤しむことの内容をみずからでみずからに与える力がないと見なす人ならばこそ、欲するということのまるごとを快への憧れのうちに求めもしよう。ファンタジ一を欠く人は、人の行ないのイデーを生みだすことができない。その人は、そのイデーを、きっと、与えてもらうことになる。その人がみずからの低い欲を満たそうと勤しむことは、フイジカルな自然の摂理である。しかし、まるごとの人が繰り出すことには、精神に由って来る欲も欠かせないものとして含まれている。ただ、その欲を人はもちあわせていないと思う人ならばこそ、その欲を人は外から受け取るべきであると言い立てもしよう。ならばまた、人は欲しないことをする義務があるということも、正しいことになる。人に対して、みずからの欲するを押し退け、みずからの欲しない課題を果たすことを求める倫理学は、いずれであれ、まるごとの人を慮(おもんばか)ることなく、精神の欲する力を欠く人を慮る。ハーモニックに育った人にとっては、いわゆる「善」というイデーが人というものの外側にではなく、内側にある。人としての振る舞いは、一面的な我欲を絶やすことのうちにあるのではなく、人の自然をまるまる育むことのうちにある。人の行ないの理想が達成されるのは、人が我欲を殺ぐにおいてこそである、というように思いなす人は、このことを知ってはいない。すなわち、その理想も欲されていること、いわゆる動物的なもよおしを満ち足らせることが欲されているのと同じてである。

 

 ひとりの人としてひとりなりに欲するというのは、フィジカルな自然からではなく、〈わたし〉という精神の自然から発していることです。

 もう七、八年まえになるでしょうか、わたしの住むアパートの近くの路地で、おばあさんが野菜や干物を商っていました。外房のとある町から新宿のとある一画まで、毎日、電車とバスを乗り継いでやってきます。八十四で、小さな背中に大きな背負篭を背負い、両手にも荷物をさげて。ある日、その路地を新聞記者が通りかかり、おばあさんのことを記事にしたいという。路地のお客さんたちも、よかったね、楽しみだねと、記事の出る日を待っていました。さて、その日、どうだったときくと、おばあさんが怒っている。「これはわたしの仕事です。老人を元気づけるのにやってるんじゃないの」と。詳しくきくと、その記事は生きる気力をなくしている老人の特集で、ついでにこんな元気な人もいますと、おばあさんが紹介されていたそうです。

 わたしは記事を読んでないですが、「これはわたしの仕事です」という、きっぱりと、すこしの曇りもないことばが、いまもなお胸に響いています。おそらく記事はその「わたし」にではなく、いわゆる「老人問題」のほうに目を向けていたのでしょう。おばあさんの想い、「よかったね、楽しみだね」というお客さんたちの想いと、記者のよかれと想う想いとは、すっかりずれていたようです。

 五十一の段です。

 

 これは否めないことであるが、ここに述べる観方は、すんなり誤解されもしよう。モラルのファンタジ一を欠く、なまなりの人は、みずからのなまなかな自然の本能を、まるまる人であることの内容と見なしがちであり、みずからを憚(はばか)りなく「生ききらせる」ことができるように、みずからが生みだしたのではない、人の行ないのイデーのすべてを拒む。まるまるの人にとってふさわしいことが、なまなかに育った人の自然に当て嵌まらないのは、自ずから明らかである。教育によって、いよいよこれから、みずからの行ないの自然が情慾の殻を打ち破るまでにもたらされるべき人については、成熟した人に当て嵌まることを求めてはなるまい。しかし、ここに記そうとしてきたのは、育っていない人に圧し印すべきことではなくて、すっかり成熟した人というもののうちにあるところである。そもそも、ここでしようとしてきたのは、自由の可能性を追って示すことである。しかし、その可能性が現れるのは、感官とこころのしからしめによる振る舞いにおいてではなく、精神の悟りによって担われている振る舞いにおいてである。

 

 人が育つということは、人が人のフィジカルな自然をまるまる繰り出すようになることに尽きず、人の精神の自然、すなわち〈わたし〉をまるまる繰り出すようになることでもあります。(「育つ」に当たるのはsich entwickelnであり、sich〈みずからを〉entwickeln〈ほどく〉という言い回しで、「成長、発達、展開、変遷」といった意です。)人が人のフィジカルな自然を繰り出すには、しかるべきことを強いたり、押し印したりすることも時には必要になるでしょうが、人の精神の自然を繰り出すには、人がまさにその人から欲するということが欠かせません。(「べき」に当たるのはsollenであり、wollen〈欲する〉と対をなします。英語のshallとwillの対と同じです。)

 そして、その欲するは、モラルのファンタジー、すなわち、想いを生みだす力の働きいかんに懸かっています。

 五十二の段、すなわちお終いの段です。

 

 そのすっかり成熟した人は、みずからの値をみずからで与える。その人が勤しむのは、自然ないしは造物主から恵みとしてさしだされる快を求めてではない。また、その人が果たすのは、快を求めて勤しむことを諦めたのちに、それとして知る義務ではない。その人が振る舞うのは、その人が欲するままにである。すなわち、みずからの倫理の悟りという物指しに応じてである。そして、その人はしようと欲することをなしとげることを、みずからの、まことの、生きることの楽と感覚する。しようと欲するのかわりに、たんにするべきことを、むきのかわりに、たんなる義務を据える倫理学は、首尾一貫、人の値を、義務が求めることと人が果たすことのかかわりで定める。その倫理学は、人を、人というものの外にある物指しで計る。 -ここに育む見解は人を人そのものへとさしむける。その見解が生きるということのまことの値として知るのは、ほかでもなく、ひとりひとりがみずからの欲するという物指しに沿って値として視てとるところである。その見解にとっては、ひとりの人によって認められてはいない生きるの値が与(あずか)り知らないものであること、ひとりの人から湧きだしたのではない生きるの目的と同じである。その見解は、あらゆる面にわたって観てとられたひとりの人において、その人みずからの主とその人みずからの値の見積もり手を視る。

 

 生きるの値、生きるは生きるに値するか、さらには生き甲斐というのはなにか、という問いを巡ってきましたが、その問いに、まさしく答えることができるのは、ひとりだちした人こそであり、さらに、その答えは、なによりもその人みずからにとっての答えです。そもそも、その値を見積もる物指しは、その人みずからのうちにこそあります。すなわち、モラルの悟りとモラルのファンタジーからそそられる、その人みずからの欲するがそれです。逆に、人のひとりだちというのは、その人みずからの欲するをもって捗ることであり、その歩みは死を迎えるまで終ることがありません。