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略伝自由の哲学第十三章 e

 この十三の章は「生きるの値Der Wertdes Lebens」というタイトルのとおり -おかしな言い方かもしれませんが- 生きるは生きるに値するか、生きがいというのはなんなのか、命はなんぼのものかといった問いをめぐっています。この回はその三十七の段からです。

 

 さて、ペシミズムは言いもしよう糧への満たされないもよおしは、楽が得られないことの不快ばかりか、れっきとした苦、痛み、惨めさをも世にもたらす。ペシミズムはそれについて、糧への心配に領される人たちの、名もなき惨めさ、つまり、そのような人たちにとって、糧を欠くことから間接的に増してくる不快の量を引き合いに出しもしよう。そして、ペシミズムがその言い立てを人のほかの自然にも宛てがおうとするにおいては、きまった季節に糧を欠いて飢える動物たちの苦をもちだしもしよう。その災いについてペシミストは、こう言い立てもしよう。その災いは、糧へのもよおしによって世にもたらされる楽の量に、はるかに勝る。

 

 すでに見たとおり(13-dの回)、「生きる」ないし「生命」において「もよおし」ないし「欲」があり、「もよおし」ないし「欲」が満たされて「楽」ないし「快」が生じます。つまり、「楽」ないし「快」があるためには、「もよおし」ないし「欲」がなければなりません。そもそも「生きる」ないし「生命」はかずかずの「もよおし」ないし「欲」の和においてあらわになります。

 しかし、そこにはこういう問いも生じます。「欲」は「快」ばかりでなく「不快」をももたらすではないか。そもそも、「もよおし」は「楽」ばかりか「苦」をも招くではないか。しかも、そのことはひとりひとりの人にも、人という人のまるごとにも当て嵌まるではないか。

 たとえば、「人類」はそのむかしから「食糧難」をかかえてきたのではないか。いまも多くの人が飢えに苦しみ、その苦とともに今日明日の食べ物の心配をかかえながら、見まがいようもなく痛ましく惨めな暮らしをしているではないか。ついでに言い添えますが、このたびの「金融危機」によって多くの人が難を被っているのも、「市場」で欲が憚りなくものをいっているからではないか。いわゆる「市場主義」は欲が幅をきかせて、どのみち破綻するものではないか。(「れっきとした」に当たるのはpositivであり、position〈ポジション〉に通じるラテン語positum〈置かれた、与えられた〉から来て、「肯定的、積極的、具体的、現実的」といった意です。「引き合いにだす」に当たるのはsich〈みずからを〉auf・・・〈・・・の上へと〉berufen〈召す〉という言い回しで、「・・・を証人にする、または証拠にする」の意です。ついでですが、アメリカの大手保険会社AIGが公的資金を注入されていながら高額のボーナスを支給していたことに -なかには六億円を超える額を手にしていた幹部もいるそうです- 国民の多くが怒っており、それは高額のボーナスが「強欲greed」のゆえであり、強欲が「キリスト教の七つの大罪」の一つであるからだと、2009年3月24日、夜7時の「NHKニュース」が伝えていました。だいじょうぶですか、NHK?)

 そもそものこと、生き物はまさに生きることによって、災いを被るではないか。環境の変化や生存のための戦いといった自然のファクターによって、多くの生き物が飢え、傷つき、命を落すではないか。これもついでに言い添えますが、いまは環境の破壊や資源の乱獲といった人為のファクターによっても、多くの生き物が禍いを被っているではないか。その禍いは、ひいては人という人のまるごとへと及んでくるのではないか。(「災い」に当たるのは担であり、「邪悪、害悪、病気、苦痛、苦悩」といった意で、どちらかというと自然の要因によるものを指すようです。「もちだす」に当たるのはauf・・・〈・・・を〉hinweisen〈指し示す〉という言い回しで、「指摘、言及、教示」といった意です。)

 『自由の哲学』が書かれてから今年で115年になります。そのあいだに快が不快を上回ると言い立てるペシミストにとって引き合いにだしたくなるような例はことに経済、金融がらみで)増してきているかのようですが、その実、その言い立てが上っ面で、あさはかであることは、その例により、かえって見通しやすくなっていないでしょうか。

 すなわち、三十八の段です。

 

 たしかに疑いもなく、人は快と不快を引き合わせ、どちらが上回るかを定めることができる。まさしく損得を勘定するのと同じようにである。しかし、ペシミズムが不快の側に上回りが出ると信じ、そこから推して、生きることに値はないと断じることができると思うにおいては、現実的な生においてはなされない勘定をしているかぎりにおいて、すでに間違っている。

 

 これもすでに見たとおりですが(13-c-1, 2の回)、快と不快の差し引き勘定は、会計帳簿ないし簿記と同じ原理でまかなわれます。そして、不快を少なくし、快を多くしようとするのは、損を減らし、得を増やそうとするとするのと同じく、思惑にもとづいてであり、投機によってです。

 なるほど、生きること、ないし生命、またはもよおし、ないし欲は、快とともに不快をももたらしますが、しかし、快と不快の差し引き勘定によって、不快が快を上回るゆえに、生きることに値はない、命の値はいかほどでもない思いなす人、いうところの「ペシミスト」は、なににつけても損得勘定を先立て、損を減らし得を増やすための思惑にかまける人と同じく、生きることそのことを見落としています。なるほど、かたや欲を蔑み、かたや欲に任せるという違いはありますが、しかし、どちらも世知がらく(打算的で)、痩せ細った(抽象的な)思いをまるまるの現実と取り違えていることでは、まったく同じです。(「推して断じる」に当たるのはauf・・・〈・・・で〉schließen〈閉じる、締める、結ぶ〉であり、「推論、帰結、結論」といった意です。)

 いったい、食べるものがなくて困っている人が求めるのは、なによりも食べるものでなくしてなんでしょうか。そもそも、餓えている生き物が欲するのは、なによりも餓えを満たす糧でなくしてなんでしょうか。それは快を増やし、不快を減らそうとする思惑からのことでは、断じてないはずです。そして、これもついでに言い添えますが、いわゆる市場主義によって増幅される「欲」は、「生きる」、からではなく、「生きる」についての思惑からの、上っ面で、あさはかな「欲」でなくしてなんでしょうか。(もちろん、上っ面さ、あさはかさに命をかける、やけくそな人もいるにはいるでしょうが・・・)

 すなわち、三十九の段です。

 

 わたしたちの欲は、いちいちのケ一スにおいて、ひとつの定かな対象に向かう。満たされることの快の値が大きくなるのは、すでに見たとおり、快の量がわたしたちの欲の大きさとのかかわりで大きくなるにつれてである。しかしまた、わたしたちが快を得るのに代償として引き受けようとする不快の量の大きさも、わたしたちの欲の大きさに懸かる。わたしたちは不快の量を、快の量にではなく、わたしたちの欲の大きさに引き合わせる。食べることで大きな喜びを得る人は、糧へのもよおしが満たされることに喜びを抱かない人よりも、飢えの時をたやすく凌ぐだろう。つまり、よりよき時における楽のためにである。子どもが欲しい女の人は、子を得るにおいて増す快を、妊娠、出産、育児などから生じる不快の量にではなく、子を得たいと欲する欲に引き合わせる。

 

 「もよおし」ないし「欲」が繰りだすのは、のべつまくなしではなく、そのつどそのつどにおいてであり、なんでもかんでもに向かってではなく、これといったなにかに向かってです。

 そして、これまたすでに見たとおりですが(13-dの回)、「楽」ないし「快」に値がつくのは、「もよおし」ないし「欲」を分母とし、「楽」ないし「快」を分子とする割算によってです。すなわち、「もよおし」ないし「欲」という「母」の強さに比べて、「楽」ないし「快」という「子」の大きさが増すほどに、「楽」ないし「快」という「子」の値は高くなります。

 はたまた、わたしたちは「欲する」において、やむなく被る「苦」を苦にせず、「不快」をものとはしないものでもあります。それどころか強く「欲する」においては、たとえ火のなか水のなか、やむをえない「苦」ないし「不快」をすすんで引き受けさえします。すなわち、「そなたは苦しんで子を産むであろう」というのは旧約の(ヤーウェ神がイブに対して言った)ことばですが、「楽」ないし「快」という「子」は、「苦」ないし「不快」を伴って産まれ、「もよおし」ないし「欲」という「母」が強いほどに、大きな量の「苦」ないし「不快」をも引き受けることができます。

 四十の段です。

 

 わたしたちが勤しむのは、定かな大きさの抽象的な快を求めてではなく、まったく定かなありようの具体的な満ち足りを求めてである。わたしたちがひとつの定かな対象、またはひとつの定かな感覚によって満たされる快を求めて勤しむにおいては、他の対象、または他の感覚が得られ、同じ大きさの快が醸されても、それによっては満たされない。腹を満たすことに勤しむ人にとって、そのことでの快は、大きさが同じでも、散歩による快で代替することができない。ただ、わたしたちの欲がいちいちをまったくさしおいて、定かな快の量を求めて勤しむのであれば、その欲は、その快がそれよりも大きい不快の量を被らずには得られないとなったら、きっと、たちどころに止むであろう。しかし、満ち足りを求めて勤しむことは、定かな趣でなされるゆえに、満たすことをもっての快が生じるのは、きっと、その快とともにその快に勝る不快をおまけとして引き受けるにおいてである。生き物のもよおしは定かな向きで繰りだし、具体的な目標に向かうゆえに、その目標への道にはだかる不快の量を同等のファクターとして勘定に入れることはできなくなる。欲が強く、不快を凌いだ後に -よしんば、不快が絶対的に大きいとしても- まだいかほどかが残っていればこそ、満ち足りの快がまるまるの大きさで味わいつくされる。すなわち、欲は不快を、得られよう快と直接的にではなく、間接的に引き合わせる。つまり、欲はその欲の(相対的な)大きさを、不快の大きさに引き合わせる。要は得られよう快と不快のどちらが大きいかではなくて、勤しみの目標への欲と立ちはだかる不快の押しとどめる力のどちらが大きいかである。その押しとどめる力が欲よりも大きいなら、欲がやむなく萎えて、勤しむことが止む。満ち足りが定かな趣で求められることから、その満ち足りにかかわる快が意義を有し、その意義によって、得られた満ち足りに従い、やむをえない不快の量を勘定に入れることができるようになる。しかも、その不快の量がわたしたちの欲の度合いを殺いだかぎりにおいてである。わたしが遠見の友であるとしたら、山の頂きからの眺めがどれほどの快をもたらすかを、きつい登り下りの不快と直接に比べてはじきたしたりはしない。しかし、きつさを乗り切った後にもなお遠見へのわたしの欲がいきいきしているかどうかについては、じっくりと考える。快と不快が引き合わされて、なにごとかが出てくるのは、欲の大きさによって間接的にである。すなわち、問いとなるのは、快と不快のどちらが上回るかではなくて、快への欲りが不快を乗り切るほどに強いかどうかである。

 

 たとえば、わたしたちはお腹が空いて食欲がもよおし、そのもよおしからお腹を満たすことを求めて、台所に立つなり、食堂へ行くなりと、それなりのことをするに勤しみます。その食欲を散歩で紛らわそうとしても、紛らわしきることはできないものです。また、デザートとしてスイーツが欲しいのに、サラダを出されたりしたら、どうしましょう。(「勤しむ」に当たるのはstrebenであり、「励む、努める、頑張る、勉強する」といった意です。なお、それについては、ことに二の章を見てください。)

 逆に、家族そろっての休日をみんなでなにかをして楽しくすごそうということで、父親がドライブはどうかと言うのに対して、母親が休日はどこも混むし、車も渋滞するし、準備もけっこう大変だし、それよりは近場でおいしいものをそうだ、あの店のフレンチはどうかしらと言うと、娘は食べるならお寿司がいいと言い、息子は出かけるなら水族館がいいとがんばり、じゃ、ドライブかたがた水族館にも寄ってと、父親がまきかえし、ベつにフレンチじゃなくて、お寿司でもいいし、いや、お寿司のほうがヘルシーで、メタボも防げるしと、母親が言い返し・・・、とにかく「家族そろっての休日をみんなでなにかをして楽しくすごす」という案は、なかなかまとまらなかったり、どうにかこうにかまとまっても、だれかにしこりが残ったりしがちです。

 そもそも、生き物における、いちいちのもよおし、ないし欲には、そのいちいちならではの向きがあります。だからこそ、その向きには、もろもろが立ちはだかることになります。なおかつ、いちいちのもよおし、ないし欲を満たすことができるのは、その向きで勤しむによってであり、その勤しみに立ちはだかるもろもるによる苦ないし不快を凌ぎながらです。そして、そのもよおし、ないし欲を欠く人にとって、その向きはみずからの与り知らない向きであり、その向きでの勤しみはひとえに苦と不快を被るだけの、無意味な道でしかありません。

 すなわち、生き物が勤しむにおいて、満ち足りの楽ないし快は目標であり、立ちはだかるもろもろによる苦ないし不快は凌がれるところであり、同じ列に並びはしません。そして、その楽ないし快を苦ないし不快に引き合わせるのは、ひとり人のみが、勤しみの目的ないし意義という回り道を介して(間接的に、つまり覚えからじかにではなくて、まさに考えるから)です。(なお「目的Zweck」については、ことに十一の章を、「意義Bedeutung」については、ことに十二の章を見てください。)

 四十一の段です。

 

 その言い立てが真っ当であることの、ひとつの証として、こういうことがある。すなわち快の値は、快が大きな不快によって購(あがな)われることになる場合のほうが、いわば天の贈り物のごとくに舞い込んでくる場合よりも、高くつけられる。苦と痛みのゆえにわたしたちの欲のテンションが下がり、なおかつ目標が達成されるなら、快は残っている欲の量とのかかわりで、なおさら大きくなる。まさにそのかかわりが、すでに示したとおり、快の値である(三十四の段)。さらなる証がこのことから出てくる。すなわち、生き物(人をも含む)がもよおしを繰りだすのは、及びくる苦と痛みを耐えることができるあいだである。そして、生存をめぐる戦いは、その事実の結果にほかならない。存在する生命は繰りだそうとする。そして、生き物のうち、襲いくる難の力によって欲を封じられたものが、戦うことを抛(なげう)つ。生き物のいちいちは、飢えが命を殺ぐまでは、糧を求める。そして、人もまたみずからに手を下すのは、みずからにとって勤しむに値する目標に行きつくことができないというように(正しかろうとなかろうと)、いよいよもって信じるときである。しかし、みずからの見解にそって勤しむに値することを、まだなしとげることができると信じるあいだは、苦という苦、痛みという痛みに対して戦う。哲学は人に対して、欲するが意味をもつのは快が不快よりも大きいときであるという意見をもちだすことになろうとも、人はみずからの自然に従って、欲の対象を得ようとする。そこに避けがたく及びくる不快がたとえ大きかろうとも、それに耐えることができるかぎりはである。しかし、そのような哲学が間違いであるのは、人の欲するが人にとっておおもとではよそよそしいこと(不快に対する快の上回り)に左右されるとするからである。おおもとにおける、欲するの物指しは欲であり、そして欲はもちこたえることができるあいだは、もちこたえる。欲を満たすにおける快と不快が問われるとこころとなるにさいして、分別に沿った哲学ではなく、生きるが仕立てる勘定は、次のことに比べることができよう。定かな量のリンゴを買おうとして、売り手から -売り場を開けたいので- いいリンゴをその倍の量のよくないリンゴと抱き合わせで買ってくれと言われる。そのとき、わたしがためらうまでもなく、よくないリンゴも引き取るとしたら、それは少ない量のいいリンゴの、わたしにとっての値を高くつけ、売り値との兼ね合いで、よくないリンゴを片付ける手間をも引き受けようとする場合であろう。その例において、もよおしによって醸される快の量と不快の量のかかわりが、ありありと観てとられよう。わたしがいいリンゴの値を定めるのは、その量をよくないリンゴの量から差し引くによってではなく、よくないリンゴの量がよくないリンゴと抱き合わせであっても、なおかつそれなりの値をもちこたえるかどうかに従ってである。

 

 たとえば「達成感」と言いますが、それもここにいうとおりの、「もよおし」ないし「欲」の強さを分母とし、それが満たされての「楽」ないし「快」の大きさを分子とする、「快の値」でなくしてなんでしょうか。はたして、それはもろもろの苦を凌ぎ、いくたびもの難を乗り越えて得られているほどに、大きくはありませんか。

 そもそも、生きとし生けるものは、もよおしを繰りだします。いわゆる「生存競争」は、そのことの結果であって目的ではありません。そして、目的という考えが当て嵌まるのは、ひとり人のすることにのみです(十一の章)。つまり、「生存競争」や「強い子孫を残す」といったことが目的となるのは、ほかでもなく人が、「思い」ないし「分別」をもって「意味」をはからい、「意見」をいだくからです。(なお「思いVorstellung」については、ことに七の章を、「分別Verstand」については、ことに三の章を、「意味Sinn」については、ことに四の章を、「意見Meinung」については、ことに五の章を見てください。)

 また、生きとし生けるものがもよおしを繰りだすのは、被る災いや難に耐えることができるかぎりにおいてです。そして、人が勤しむのは、禍いや難を被りながらも、みずから勤しむに値すると「思う」ことを、なしとげることができると「信じる」かぎりにおいてであり、その「思い」および「信」は、ほかでもなく「考える」から来ます。(なお「考えるDas Denken」については、ことに三および八の章を、「信Glaube」については、ことに五の章を見てください。)

 すなわち、楽ないし快の値にとって、もよおし、ないし欲が母、それを満たすでの楽ないし快が子であるように、その「思い」および「信」のもとにある「考える」は、父です。そして、その母も自然であるように、その父も自然であり(二の章)、楽ないし快の、および生きる、ないし生命の、掛け値なしの値は、人のひとりひとりが、その父と母なる自然をもって産みだします(九の章)。

 そして、四十二の段の段です。

 

 わたしがいいリンゴを楽しむにさいし、よくないリンゴを顧みないままにしておくように、わたしが欲を満たすことに打ち込むのは、避けられない苦を振り払ってからである。

 

 人のひとりひとりがもよおし、ないし欲を満たすに勤しむのは、いささかなりとも、また、それと気づいていようといまいと、きっと、苦を凌ぐ立ちようをもってであり、不快を乗り越えるありようをもってではありませんか。(「振り払う」に当たるのはabschüttelnでありschütteln〈振るい〉ab〈払う〉というつくりで、「みずからを苦や不快にわずらわされないようにする」という解があります。)

 

 

 さて、この回のおしまいには、江弘毅『街場の大阪論』(バジリコ)を評した永江朗による書評(『週刊現代』2009年4月11日号)から、こういう一節を引きます。

 

 おそらく1970年代の終わりごろから、私たちは互いを「何を買ったか」という、消費における商品名=記号で認識するようになった。認識というより値踏みと呼んだほうが正確かもしれない。しかしそれ,は生活とは次元が異なるものだ。私たちが「生きている!」という実感は、記号にではなく、生活者としての日々のなかにある。記号は他のものに置き換え可能だが、地に足のついた生活は交換できない。