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考えるということの実践的な培い

 

 

アントロポゾフィーの精神科学は、ここでの話のとおりですが、もちろん一回に一節を述べるだけにはなりますが、はなはだ多くの人から、つまり、それを知らない人か、知ろうとはしない人から、夢想家、空想家のための領域と見なされますし、現実的、実践的に生きるということから隔たった人のための領域だとも言われがちです。たしかに、いちいちの冊子から、うわっつらに、そのつどの話から、ほそぼそと、精神科学の内容と目標を弁えようとする人ならば、そうした判断へとたやすく行き着きもします。また、その人が、僅かな意欲をそなえにして、現実的な精神の領域に踏み込もうとしていれば、ことさらです。そして、いまは、その僅かな意欲が、たわわにありあわせています。また、その人が、もろもろの先入観や暗示をそなえにしていれば、なおさらです。そして、わたしたちの時代の文化からは、そうした研究領域に対する先入観と暗示が、ふんだんに生じてきます。また、いまは決して稀なことでありませんが、そこに悪意が加わると、こういう判断がたやすくできあがります。あぁ、精神科学がとやこうするものごとなど、実践的な人、生きるということの地盤に両の足で立とうとする人なら、意に介してはならない・・・。

 

しかし、精神科学そのものは、生きるということの実践的も実践的な領域との密接なつながりを感じていますし、また、それがふさわしく営まれるところでは、現実的で実践的に生きるということの最も確かな導き手、すなわち、考えるということも、まるまる実践的に育まれるということに、最も大きな価値が置かれています。そもそも、まずひとつに、精神科学は、世に疎く、世から隔たり、雲の上に漂い、ふつうの暮らし、日々に生きるということから人を引き離そうとするものであってはなりません。逆に、わたしたちが生きるそのつど、わたしたちが考えること、すること、感じることのすべてにおいて、役に立つものであるべきです。そして、ふたつに、精神科学は、ある意味で、どこまでも、かの知の次元、人そのものが高い世に踏み込む次元に向けての、こころのそなえです。たびたび言うとおりですが、精神科学が価値をもつのは、すでに開かれた目をもって精神の世に踏み込む人にとってのみではありません。人の健康な分別、曇らされていない理性と判断力は、精神の研究者が高い世から伝えることを見抜けますし、そのようにして伝えを取り入れることが、人にとって、その人が精神の世に踏み込むことができるようになるまえから、はてしない価値をもちます。または、こうも言うことが許されます。精神科学は、どの人にとっても、こころのうちにまどろむ高い知の感官を、みずからで拓くためのそなえです。それでこそ、精神の世が覚えられるところとなります。

 

精神の世へと踏み込むにつき、人が用いることになる、さまざまな方法と手立てについては、一部をすでに話しましたし、残りの部分についても、やがて話すことになります。しかし、そこには、つねに無条件の前提があります。すなわち、精神の世に踏み込もうとする者、精神の感官を開くべく、精神の研究からきちんと示される方法を用いようとする者は、その、高く生きるということへの歩みを、健康に、実践的に培われた、考えるという地盤に立つことなしには、一歩たりとも進めてはなりません。健康に考えるということこそ、精神の世に踏み込んでいくための導き手であり、真のライトモチーフです。そして、精神科学の方法によって精神の世へと最もよく踏み込むのは、現実に適い、現実の法則に適って考えるということに向け、みずからを厳しく育む者こそです。もっとも、現実的、実践的に考えるということについて語るとなると、世にいうところの実践、よってまた考えるということの実践と、たやすくかちあうことになります。その実践がどういうものであるかは、これまでにもたびたびふれたことですが、このことを思い起こしてみれば足ります。世の多くの人が、みずから実践家であることを名のります。今日、いわゆる実践的な人たちが口にする、その実践とは、なんでしょうか。ある人が、ある親方に弟子入りするとします。そして、ここ数十年来、ことによると数百年来、受け継がれ、厳しく定められてきた手立てや手順のことごとくを学んで身につけます。そこでは、考えるということをしないほど、自立した自由な判断をしないほど、敷かれたレールの上を行くほどに、実践的な人として世に迎えられますし、わけてもその領域で働く人たちに迎えられます。永い間なされてきたことから少しでも逸れていれば、非実践と呼ばれるのがだいたいです。そうした実践が保たれるのは、おおむね理性によってでなく、ひとえに権力によってです。なんらかのポストに立ち、まさにふさわしいと見える仕方でものごとをきりもりしなければならない人は、その領域にたずさわる人なら誰もがみずからと同じようにするはずだということを、頭に押し通します。そして、その人が権力を握っていれば、違った仕方でしようとするすべての人を追い出します。

 

実践は、多くの場合、そうした前提から織りなされます。そのうちには、ふさわしいことも出てきます。たとえば大きな一歩がしるされるような場合です。フュルトとニュルンベルクのあいだに鉄道が数かれることになりました。それについては、きわだって実践的な団体、バイエルン医師会の判断も仰がれるところとなりました。そもそも鉄道を敷くべきかどうか、についてです。その判断は、いまでも読むことができます。そこには、こうあります。鉄道は敷くべきではない。なぜなら、列車が走れば、神経が侵されるからである。それでも敷こうというなら、左右に高い塀を設けなければならない。近くを通る人が脳にショックを受けないように・・・。それが実践家の判断です。その実践家がいまでも実践家として受け入れられるかどうかは、疑がわしいところです。たぶん受け入れられません。

 

例をもうひとつ挙げます。進歩ということが実践家をもって任じる人から来るのか、その他の人から来るのかが、はっきり分かります。これは誰しも実践的だと見なすはずですが、いまは手紙を出すのに、郵便局まで行くには及びません。郵便局で案内書をもとに宛て先までの距離を調べて料金を割り出すという手間は省かれています。十九世紀の四十年代に、郵便料金の一律制がイギリスで発案されました。しかし、それを発案したのは、郵便の実践家ではありません。実践家は、その制度が審議にふされたとき、こう言いました。ひとつに、ヒルが見込むような利点が実際に出てくるとは信じられない。ふたつに、その制度を実施すれば、郵便局の建物を大きくしなければならない。その実践家は、こう考えることができませんでした。郵便局の建物が郵便物の集配に応じて設けられますが、その逆で集配が建物に応じてなされるのではありません。また、ベルリンとポツダムのあいだに鉄道が敷かれるときにも、ひとりの実践家、永いあいだ二台の郵便馬車をポツダムに向けて走らせていた人が、こう言いました。みなさん、お金を窓から捨てる気ならば、なるほど、鉄道を敷くのもよろしいでしょう。

 

いわゆる実践家の実践が大きなものごとを見てとるには非実践的であるゆえに、考えるということの実践的な培いについて語るときには、その実践家とかちあうことにもなります。囚われずに見る人には、生きるということの領域という領域において真の実践がどのようになりたつかをはっきりと示すものが迎えられます。たとえば、実践的に考えるということの妨げとなるものに、わたしがはじめて出くわしたのは、こういうきわめて見やすい例においてでした。学生時代の友人がいきりたち、顔を赤くしてやってきました。そして、こう言います。いますぐ教授のところに行って伝えなければならない。たいへんな発明をしたんだと。それからまた戻ってきて言います。いまから専門家と話ができる。まあ、一時間ぐらいだろう。そして、その後、かれはその発明について、とうとうと話してくれました。それは、ひとたび僅かな蒸気の力で機械を動かしたら、機械が動きつづけ、とほうもない仕事をしてのけるというものです。友人は自分に驚いています。自分はこんな発明をするほど賢かった。自分の発明は他に抜さんでているし、莫大な経済効果をもたらす・・・。わたしは、そのまるごとを、ひとたび単純な考えに立ち返って考えてみるようにと言いました。つまり「たとえば列車に乗り、中から壁を押して動かそうとする。それで列車を動かせるなら、君の機械もすてきなものだ。そもそも原理は同じだから」というようにです。

 

わたしにはその時に明らかになったことですが、実践的に考えるということの妨げとして最たるもののひとつは、こういうテクニカル・タームで呼ぶことができます。すなわち「車を中から押す人」です。それが多くの人のする考えに当てはまります。なんとも多くの人が「車を中から押す人」です。どういうことでしょうか。ほかでもありません、人がそれなりの限られた領域でなら見渡すこともできますし、学んだことを応用することもできますが、なおかつ、その領域の内側に留まることを強いられていますし、「車」の外に出たら立ちどころにすべてが変わるのを、まったく見抜けないでいるということです。

 

すなわち、なにに対してであれ、考えるということを実践的に培うには、きっと、願みられることになる原則のひとつが、こうです。それなりひとつの領域で働く人なら誰しも、きっと、みずからがしている働きにまったく左右されずに、みずからの領域と接するところに向けて糸を張るということをしてみなければなりません。それをしなければ、真に実践的に考えるということも得られません。そもそも、これはいわば内なる情性と繋がりのある質ですが、人のする考えるという働きは、えてして殻に閉じこもり、外にあるものを、ありありと手にとることができるものをさえ、忘れてしまいます。

 

まえに、違ったかかわりにおいてですが、わたしはこういうことを引き合いに出しました。カント・ラプラスの理論を人はどのように証明するでしょうか。かつて星雲があり、それがなにかよって回転するようになり、そこからだんだんに太陽系の惑星が分かれ、それなりの動きをするようになり、その動きをいまも持ちこたえている。そのことを人はこういう実験で明らかにします。いわゆるプラトーの実験です。容器に水を満たし、水の中に油の玉を浮かばせます。ボール紙を円の形に切って油の下に入れ、釘をさして廻します。ボール紙の周りで油が分かれ、小さな玉がいくつかできます。惑星のごとくです。その小さな玉が大きな玉のまわりを動きます。考えるということとのかかわりからみると、そこでは人がはなはだ非実践的なことをしでかしています。人が人みずからを忘れています。なるほど、その他の場合なら、おおむね、いいことではありますが。人が、ことがらの廻し手であることを、忘れています。ひとつのことがらにおいて、その最も重きをなすところを忘れるということは、もちろん、してはならないことです。ひとつの実験を説き明かそうとするなら、要となるものごとのすべてを俎上にのせなければなりません。それがことの要です。

 

考えるということの現実的、実践的な培いを経験しようとする人にとって欠かせないことのまずひとつは、考えの現実性、考えのリアリティに、信をおくこと、親しさをもつことです。どういうことでしょうか。水の入っていない器からは、水を汲みだすことができません。考えのありあわせない世からは、考えを取りだすことができません。わたしたちの考えや想いのまるごとが、ただ、わたしたちのうちにあるのみである、というように信じるとしたら、おかしなことのきわみです。たとえば、時計をばらして、それがどんな法則から組み立てられているかを考えてみる(追って考える)人なら、きっと、時計の作り手が時計の各部をその法則に沿って組み立てたということを思い設けます(仮定します)。考えに沿って構えられ、つくられ、かたどられているのではない世から、なんらかの考えを見いだすことができるというようには、だれしも信じてはならないはずです。わたしたちが自然と自然の事象とについて見いだすことのできるすべては、ほかでもなく、まずもって自然と自然の事象とに、きっと、込められているはずのところです。わたしたちのこころの内には、まずもって外の世にありあわせなかった考えなど、ひとつもありあわせません。アリストテレスは、いまの多くの人よりもふさわしくこう言っています。人が考えるにおいて、ついに見いだすところは、世において、外において、はじめにあるところである。

 

しかし、人が、その親しさ、世のうちにある考えへの親しさをもつならば、このことをもすんなりと見抜くようになります。人は、まず、世につき関心をもって考えるということに向けて、みずからを育むことを要します。考えるということの大きく美しい理想、ゲーテがきわだたせるとおり、対象に沿って考えるということ、できるだけものごとから離れずに、できるだけものごとに沿って考えるということに向けてです。心理学者のハインロートは、ゲーテについて美しいことばを用いています。ゲーテにあって考えるということは対象に沿っており、考えがものごとに含まれるところの他は表さないということ、人がものごとのうちにリアルな創造的な考えの他は探し求めないということです。そして、人が、その親しさ、考えのリアリティへの信をもつなら、このこともすんなりと見抜くようになります。人は、周りの世とひとつに響きかい、リアリティとひとつに響きかうなかでこそ、真に実践的に、健康に、ものごとから離れずに考えるということに向け、みずからを育むことができます。

 

人が、実践的に考えるという意味での育みを、みずからに引き受けようとするにおいては、顧みるべきことが三つあります。一つに、人が、外側の、周りの現実への関心、事実と対象への関心を、きっと繰り出しますし、また繰り出すべきです。周りの世への関心、それが考えの育みにとって魔法のことばです。することへの喜びと愛、それが二つ目です。後から想うことについての満ち足り、それが三つ目です。その三つ、周りの世への関心、することへの喜びと愛、後から想うことにおける満ち定りが分かる人なら、やがてこのことを見いだすようになります。それこそが主として求められることです。それこそが考えるということの実践的な培いにおいて立てられるべきことです。ちなみに、わたしたちの周りの世への関心は、次の回で話すことと大いにかかわりがありますし、そのことに懸かっています。そのことというのは、人の自然の見えざるなりたち、および気質ということです。

 

考えるということの最も大きな敵は、そもそもにおいて、またおうおうにして、考えるということそのことです。考えるということができるのは人だけであり、ものごとは内に考えをもたない、というように考える人は、考えるということの実践に敵として対します。ひとたび、こう考えてみましょう。ある人が、人について、いくたびか、狭く限られた想いをしたとします。人について、いくつか、ありきたりの型にはまった考えをもったとします。さて、その人が、もうひとり、そのありきたりに、ほぼ当てはまるような人に対するとします。その人は、はや、判断を済ませています。ですから、この人はこの人ならではのことを語るだろうとは信じません。わたしたちが周りのなにに対してであれ、事実のひとつひとつがことさらなことを語るだろうという感じ、ものごとについて、そのものごとの他に判断させるのはふさわしくないという感じをもって近づくなら、そうした対象に沿う感覚がどのような実を結ぶものであるかにも、やがて気づくようになります。ものごとは、わたしたちがものごとにいて語ることができるよりも、ずっと多くを語ることができるということ、そのことへの信が、はたまた考えるということの実践にとっての魔法の理想です。まさにものごと、事実そのものが、わたしたちの考えるということの育み手であるべきです。

 

ひとたび、こう考えてみてください。ひとりの人が、実践的な考えの培いにむけて、次の二つの重要な手立てを用いるまでになるとします。その人がひとつの事実に対します。たとえば、今日、どこそこへ行ってきたということにしましょう。そのことが、まずもって経験されるところです。さて、みずからを考えつつ育みます。みずからにこう語るのがいいでしょう。わたしはしかじかを経験した。いまから、それについて考える。どんな原因から、つまり昨日、一昨日、あるいはその先に、なにがあればこそ、今日のことが生じたのか。すなわち返りつつ、生じてきたことから、その先の、そのもとでありうることを見渡してみます。そのことを探し出し、考えのファンタジーに沿って原因を選び出します。それでこそ、実の原因がわたしの考えたことと重なり合うかどうかを、つきとめることができます。そのようにぴたりと合っているということにおいて、あるいは合っていないということにおいても、わたしは重要なものを得ています。わたしの考えが原因としてわたしの経験しうるところと重なり合うなら、それにこしたことはありません。多くの場合、そうはいきません。その時には、どこで誤ったかを突き止めます。正しくない考えを、ことの正しい経緯とつきあわせてみます。それを繰り返しするならば、やがて、遅かれ早かれ、眠るということがなくなっているのに気づきます。すなわち、ひとつの事実から、ことの客観的な経緯に適った考えを掘り起こすことができます。もうひとつは、こうです。ここでもまた、ひとつのことを取り上げて、明日、あるいは何時間か後に、そのことからなにが引き続きうるかを、考えにおいて確かめてみます。そして、考えたことが起こるかどうかを、安らかに待ちます。はじめのうちは、考えたことが当たっていなかった、ということにもなります。しかし、それを続けてしていると、分かります。考えるということが、事実において生きるようになります。考えるということが、ものごとから離れ、ただそれだけで気儘な思いを仕立てるということがなくなります。考えの捗りが、ものごとの捗りと同じになります。さらにまた、ものごとから離れて、抽象的に概念を仕立てるということを、みずからに禁じるなら、こんなことに気づきます。だんだんに、みずからがものごととともどもであるようになります。確かな判断を得るようになります。

 

人によっては、そのように考えるということを、確かな本能の導きによってするようになります。それは、その人が、生まれながらのことさらな素質によって、そのように考えるということを培うからです。そのような人のひとりがゲーテでした。かれはものごととともどもであり、かれの考えるということは、頭においてではなく、ものごとにおいて捗りました。ゲーテは弁護士でもありましたが、健康な判断力をもち、ものごとにどう取り組んだらいいかについて確かな本能をもちあわせていました。ひとつの案件を手掛けるにも、記録に目をとおし、文書を調べるのに、ながながと時を費やしはしませんでした。ゲーテにあっては、そうではありません。かれは実践家でした。ワイマールの大臣であったゲーテの手になる文書がいつか公けにされたなら – わたしはその多くに目を通しました – ゲーテがいちじるしく実践的な質であり、世に疎い人ではなかったことが、いよいよ世に知られることでしょう。よく知られているとおり、かれは大公とともに、新兵の訓練のため、アポルダに赴き、一部始終を見てまわります。そして、その時に『イフィゲーニエ』を書き上げています。それを、いまの作家と比べてみてください。いまの作家にとって、それは仕事の妨げでしかないはずです。しかし、ゲーテは、そのような仕事の妨げを嫌う作家のだれよりも大いなる作家でした。かれは、実践的に考えるということのゆえに、たとえば窓のところに行って、こうも言うことができました。今日は出掛けられない。三時間もしたら雨になる・・・。かれは雲の研究もしています。ただ、粗い理論を立てることはしていません。かれの考えるということから繰り出すことは、そのまま外の自然において繰り出すことでした。それを、人よんで、対象に沿って考えるといいます。そのように対象に沿って考えるということを人が身につけるのは、わけても先に言うような練習をするにおいてです。もっとも、それは無であるということとかかわります。へんに聞こえるかもしれません。しかし、こころにも法則があります。そうした実験をするにおいて、みずからのことばかり考えていては、さしたることもなされません。たとえば、ひとつの事実を見やって、すぐに、ほら、わたしが言ったとおりだと頷いたりするのは、実践的に考えるということの最たる妨げです。そのとおり、わたしたちは多くの例をあげることができます。関心をもって、ものごとに考えを沿わせるということ、ものごとにおいて考えるということを学ぶということに、いかにしてシステマチックに取り組むことができるかを示す例です。

 

二つ目は、することへの喜びと愛です。それがリアルにありあわせるのは、わたしたちが、できばえというものを、なげうつことができるときこそです。うまくいくということだけが狙いであるときには喜びも愛も曇りのないほどにはありあわせません。よって、できばえだけが狙いである人は、試すということを安らかに進めることができません。その安らかさがあってこそ、することへの喜びと愛がだんだんにインスピレーションを与えてくれます。できることのいちいちを、できばえをなげうって、やってみるということ、なによりもそこから、わたしたちは多くを学びます。わたしはこういう人を知っています。その人は自分の教科書をいつも自分で製本していました。見栄えはよくありませんでしたが、かれはそれによって多くを学びました。うまくいくということを狙いにしていたなら、途中で止めたかもしれません。しかし、まさにすることにおいて、わたしたちは性質と技量を繰り出し(育み)ます。それでこそ手先に至るまでが器用になります。するということにおいて、できばえをことさらにあてこんでいては、器用になりません。みずからにむけ、できばえがよくないことも、でさばえがいいことと同じく愛すべきである、というように言うことができないうちは、二つ目の次元に行き着きません。すなわち、考えるということを培うとするに、きっと欠かせない二つ目の次元です。

 

三つ目として、わたしたちは、きっと、考えるということそのことにおいて満ち足りを見いだすようになります。それは、難なくできそうに見えますし、いまは、もっとも目の敵にされてもいます。しばしば、こういうことを耳にします。なぜ、子どもが、しかじかを学ばなければならないのか。実践的に生きるなかでは必要のないことではないか・・・。そのとおり、人が必要とすることだけを考えればいいという原則は、もっとも非実践的な原則です。ひとりの人にとって、生きるなかで実践的に考えようとするにおいては、ただに考えるにおいて満ち足りが出てくるという領域が、きっと、ありあわせるようになります。機械工、画家、作家、左官、大工、靴屋、仕立屋、なにをする人であれ、とにかくなにかについて、紛れなく考え、考えるにおいて満たされる時を、たとえ短いあいだでも見いださないなら、– たとえば、気になっている問いについてであれ、自分の仕事とはかかわりのないことがらについてであれ、考えてみる(追って考える)ということです そのような領域を見いださないと、いつまでも敷かれたレールの上に留まることしかできません。しかし、ただに内なる関心のゆえにするということを見いだすなら、みずからに大きく強く働きかけるなにかをもちあわせています。細やかな器官のなりたち、人の身の細やかな節々に働きを及ぼすなにかです。わたしたちを生きるということに縛りつけるものごとは、生みだし、なりたたせるという働きを及ぼしません。それは、わたしたたちを僕にします。それは、わたしたちの技量を使い減らしますし、わたしたちから生きる力を奪います。しかし、わたしたちが、考えつつ、ただに満ち足りに向けてすることは、生きる力を生みだし、新たな技量を生みだします。それが、細やかな器官のなりたちとなり、わたしたちの身につき、わたしたちの仕立てるところを高め、身の細やかな節々を高めます。わたしたちは、役に立つための仕事、外の世のための仕事によってでなく、わたしたちの満ち足りにむけてする仕事によって、なにかを生みだし、それによって繰り出しの次元を、ひとまわり先へと辿ります。そして、その細やかな器官のなりたちをもち、ふたたび実践に迫るにおいて、そのなりたちが実践へと働きを及ぼします。そして、だれしも、それがふさわしいということを、見抜くことができます。

 

ここにひとつの絵、たとえばラファエロのマドンナがあるとします。そして、人と犬がやってきます。その絵が犬に与える印象は、人に与える印象とまったく異なるはずです。生きるということの実践も、それと同じです。人が生きるということに縛りつけられたままでは、ものごとが人にいつも同じ印象を及ぼします。そこでは人が生みだしつつ噛み合う力をもちません。人が、考えるということをするなかで、みずからを一次元高く繰り出すなら、同じものからの印象に、ふたつの違ったかたちで対し合います。ひとつに、まだその人のする働きを加えていないところをもってであり、もうひとつに、すでにその人のする働きを加えたところをもってです。人が、生きるということにおいて実践的になっていくのは、ものごとの及ぼす印象がますます高められるからです。そのとおり、生きるということの実践にじかには属さないことをするのは、なるほど時間の無駄ですが、しかし、そのことは生きるということの実践をすこぶる促します。

 

それが実践的な考えの培いという培いにおける三つの次元です。周りの世への関心、試すことごと、することごとについての喜びと愛、そして、みずからを、いついつにも統べるということです。いかがでしょうか。たとえば、ものごとのかかわりを、すこぶる鋭く見やった人のひとり、レオナルド・ダヴインチも、まさに試すということをどう進めることができるかについて、すなわち描くということを、身をもってしながら、だんだんに身につけていくことについて、侮ることなく述べていす。かれは言います。トレーシンクペーパーに描いてみよ。描いたものを手本の上に重ねてみよ。描いたもののどこがふさわしくないかを、とくと見てとれ。それから、いまひとたび描いてみよ。ふさわしくなかったところを、ふさわしく描くように努めてみよ。そのとおり、かれは、することにおける喜びと愛がいかに大切であるかを示しています。三つ目は、とくと考えてみるということにおける満ち足りであり、外の世から目を離して、安らかに、内に留まることができるということです。

 

右のことごとは、わたしたちに、まず、このことを示してくれます。わたしたちは、自然のうちにおける考えへの親しさ、世の考えの構え(Weltengedankenbau 世界思考機造)への親しさを通して、真に考える人の実践時に適うようになります。しかしまた、わたしたちは、考えるということそのことが創造的な力であるということに信をおくにおいて、さらに先へと進みます。システマチックに次のことをする人なら、実践的に考える人の培いにむけて、多くのことをするようになります。なにごとかについて考えてみます。たとえば、これからしようとしていることについて、あるいは、世界観にかかわる問いについて。いたって日常的なことでもいいですし、こよなく高いことでもかまいません。さて、はじめからすぐに答えを見つけにかかっていては、おおむね、実践的に考えるということが培われません。むしろ、みずからに、こう語ることを要します。みずからの考えに、できるだけみずからをもちこまないように、ということです。多くの人は、そう、みずからに語るとしたら、なにも考えることができなくなります。これは根本的な要請ですが、わたしたちにおいて考えが働くに任せること、わたしたちが、わたしたちの考えの働く現場となることに慣れることです。しかじかのことをするのに、ただひとつの仕方しかないというようにも、また、ひとつの問いにひとつの答えしかないというようにも、考えれば考えることができます。しかし、わたしたちは教条主義者ではありません。そして、ただひとつの答えだけが正しいというのは、教条主義者にとってこそでしょう。実践的に考えるということを習おうとすれば、きっと、みずからに、もうひとつの答えを与えてみることにもなります。いや、三つ目、四つ目の答えをも・・・。実際、ものごとによっては、十通りぐらいの答えが考えられます。それらの答えを念入りに、こころの前に描きます。もちろん、そうすることができることについてであって、すぐになされなければならないことについてではありません。それは、しばしば不手際にすることになろうとも、手遅れになるよりはましです。ありうる解が十ほどあったら、そのひとつひとつを、愛をもって、考えのうちに繰り広げます。そして、みずからにこう語ります。ここで考えるのをやめる。明日まで待って、考えがわたしのうちにおいて働くに任せる。それらの考えが力であり、わたしのこころにおいて働きます。そこに、わたしがわたしの意識をもっていあわせなくてもです。わたしは明日まで、あるいは明後日まで待まちます。そして、それらの考えを呼び起こします。それをふたたび、あるいはみたび繰り返します。そのたびに、わたしは、いちいちを、より明らかに見渡し、よりよく分かつことができるようになります。それによって、実践的に考えるということが、かなりのほどに鑑えられます。すなわち、ひとつのことがらについて、みずからに、考えにおいて、さまざまにありうる解をさしだし、それを安らかにねかせ、それをまた取り上げることです。

 

そのことをしばらくのあいだしてみるなら、こういうことに気づきます。その人の考えるということが多面的になっています。その人が、ひとつの練習によって、みずからを育みつつ、精神をもって居合わせるようになり、ものごとにぴたりと応じることができるようになっています。まさにそのことによって、日常的も日常的なものごとにいたるまでが、いきいきとまかなえるようになりますし、なにが手際よく、なにが手際がわるいか、なにが愚かで、なにが賢いかを、知るようになります。いわゆる実践的な人がしばしばしでかすようなことなど、思いつきさえしななくなります。わたしは実践的な人をたくさん知っています。職業において敷かれたレールを、すこぶるよく走ることのできる人です。そのような人が、ひとたび別の場に立ち至ると、たとえば旅先などでは、どうなるでしょうか。その実践が、しばしばおかしな姿を呈することになります。考えるということの実践的な培いが真に生きるということの実践につながるということ、そのことの証は経験のうちにあります。手の先にいたるまで、人がなにかをつかむ、つかみ方にいたるまで、それは働き及ぶようになります。皿や鍋を落とすことも、他の人よりずっと少なくなります。まさに人が、そのようにして内に働きかけるならばです。実践的に考えるということが、からだの節々にまで働き及びます。考えるということが、アクティブになり、抽象的になされるのではなくなって、柔軟に、しなやかに、ことをなします。

 

かたや、非実践的に考えるということが、最も著しくきわだつのは、考える人の実践がものをいってしかるべきところにおいてです。たとえば科学においてです。さきには例として、天文学の仮定にもとづく実験のことを引き合いに出しました。いまの科学者がどれほど非実践的であるかについては、おりにふれ、ことにふれて、経験することができるはずです。わたしたちの科学、そのリアルな方法による仕事、その優れた営みは、いささかもけなすつもりはありません。しかし、いまの人の仕立てる考えは、しばしばながら、なんともおぞましいものです。わたしたちの頭微鏡にしても、カメラにしても、じつによくできています。それによって、さまざまな小さなものの、秘めやかな事実という事実を見ることができます。人が植物を見て、しかじかの目を見張るべきつくりを認めます。蠅の目のような切子面状の器官であったり、レンズのようなものでさえあったり、しかじかの虫が誘われてやってくると、花びらが閉じて、虫がとらえられるところとか。なにからなにまでが、みごとに見られています。しかし、いまの人が、それらの現象を、非実践的に考えつつ、どのように説き明かすでしょうか。人のこころ、すなわち外のプロセスを内に映すところと、ただに外に、すなわち植物に見るところが、取り違えられます。植物のこころが元々され、そこから、植物のこころと、動物のこころと、人のこころが、一緒くたにされます。ひとからげにされます。もちろん、ポピュラーな本によって世の人の知るところとなる、すばらしい自然観察に対して、どうこう言うつもりは、いささかもありません。しかし、わたしたちの同時代人の考えることが、こういう説き明かしによって、戸惑うことになります。すなわち、しかじかの植物は表の側に胃袋があり、それによって食べ物をおびきよせては、とりこむとか。その考えは、こういうものいいと、ほとんど同じです。すなわち、わたしはあるものを知っている。それは巧みななりたちをして、ひとつの器官をもつ。それは磁力のようなものを及ぼし、小動物を引きつけては、とりこむ。そのあるものとは、わたしが目にするものであり、すなわち鼠取りである・・・。その考えと、植物のこころを思いもうける考えとは、まったく同じです。植物のこころを云々することができるのなら、それとまったく同じ意味において、鼠取りのこころも云々することができます。なんとも、みようちくりんな考えかたではありますが・・・。

 

要は、こうです。人は、考えるということそのことの自然へと踏み込むことができます。ならば、そうした領城においても「車を中から押す人」にはなりません。さらに、考えるということの実践的な培いにとって重きをなすのは、内なる、精神としての考えの器官に信をおくことです。多くの人にあっては、その精神としての考えの器官がはなはだしく損なわれないようにと、親切な自然がはからってくれます。すなわち、人が、きっと、眠ります。それでも精神は止みません。それはつねにあります。その考えの器官が、それとして働きます。その器官を、人が損ないつづけることはできません。ただし、人が、生きるなかでの重きをなす事実、厳かな事実につき、考えるということを自然のはからいに任せるのと、みずからの手のうちにするのとでは、まったく異なります。考えの器官を内に働かせること – 人がそこに居合わせることなしにです–  それがすこぶる重要な原則です。そして、そのことは、こうして練習します。一日のうちの、ほんの短いあいだであれ、なにも考えないように努めることです。たいへんな決心を要しますが、どこかに座るなり、横になるなりして、考えをおさえ、頭をからにします。それに比べれば、考えが内に湧きくるままに任せ、よき眠りによって、考えから解き放たれることのほうが、ずっと楽です。ともかく、みずからにこう語ります。いまからは、しばし、しっかりと目覚め、なおかつ、みずからで考えるということを止める。なにも考えないことにする。人が、静かに座り、または横になり、まるまるの意識をもって、なにも考えないありようをするとき、考えの器官が働き、内において力を得ます。力を集めます。そのように、みずからを、まるまるの意識において、なにも考えないというありように据えること、繰り返しする人が、こう気づくようになります。その人の考えるということが明らかさを増しますし、わけても、ものごとにぴたりと適う力が育ちます。すなわち、人が、ただ眠りによってのみ、考えの道具をそれそのものに任せるのではなく、みずからの導きのもとで、その考えの道具がそれとして働くに任せることによってです。

 

精神という精神に見捨てられた人ならばこそ、考えるということがそもそも架空のことであるというようにも信じます。ここには、こういうことばが当たります。ゲーテが自然について述べたことばです。「自然がさきに考えたのであり、またつねづねに念じてもいる。」人というものの、こよなく深く内なるところも、考えをもち、考えを育みます。たとえ人が、その人の意識した考えをもって、そこに居合わせなくてもです。そして、人が、その人の考えるということとともにはいない場合にも、なにかが人の内において考えます。ただ、人がそれを意識していないだけです。そのように、人が、その人なりの考えをさしおいて、ひかえめに退くとき、じつに高いものが人の内において考えますし、その高いものが、おおいに仕立て、育てる働きを、人に及ぼします。本質的で重要なことは、意識しないもの、こうごうしいものが、人の内において働き、織りなすに任せるということを、人がしてのけることです。そのものは、じかには知られませんが、その働きにおいて知られます。人が、だんだんに、ひとりの、明るく、ものごとに適って考える人となるのは、そうした考えの練習に、みずからを捧げてこそです。そうした練習をこつこつとするには、する力とエネルギーをかなりのほどに要します。

 

考えるということを、人がその人の力によって、いかに育むことができるかが、ここまでに挙げたいちいちの例をもとに、見てとられます。今日は、考えるということの自己教育について、もっぱらいちいちの例をあげるだけでしたが、それらの例がこのことを示しています。人は、考えるということを真にすこやかにする手立て(治癒薬)を指し示すことができます。そして、それによって結ぶ実りは、まさに経験が与えてくれます。生きることそのことが与えてくれます。そのように、みずから考えるということを培う人ならば、このことを見いだすようになります。人は、一面において、精神の生きる高い領域へと昇ることができますし、もう一面において、日常的に生きる領城においても、その考えるということを、いきいきと用いることができます。大いなる精神の事実を見渡すにおいて得るところを、実践的に生きることにあてがうということが、なされて欲しいものです。そのことによって、日々の暮らしの領域という領域が、ことに教育ということが、果てしなく大きな実りを経験するでしょうし、生きるということの実践について、まったく違った観方が、わたしたちの周りでものをいうようになるでしょう。はたまた、精神の領域へと踏み込むべく、みずからのうちにまどろむ質を繰り出そうとする人ならば、確かな基をもって、しっかりと生きることのうちに立つようになります。だれであれ、高い精神の領域に迫るまえには、そのことが、きっと、促されられることになります。さらに、通常の科学もまた、精神科学によって実りを実らせるなら、大いなるものを得ることができるでしょう。

 

考えるということの車の押し手、しばしば、みずからを大いなる実践家と見なす人は、実践的に考えるということを、もちあわせていません。そのことが、その人には、欠けています。その人は、ものごとを、ひとつの単純で包括的な考えにまで立ち返って考えるということができません。まさにそのことを、精神科学はわたしたちに与えてくれます。精神科学は、わたしたちに力を授けます。生きるということにおいて、つねづねには小さく、こまごましたことを、大きく、包括的な観点をもって見渡す力です。それによって、人がこのことを見渡すようになります。人は、大きな観点から小さなことへと踏み込んで考えることできます。それでこそ、人が現実的に生きるということの実践へと導かれます。

 

レオナルド・ダヴィンチは、多くの領域において実践家でした。わたしたちは、かれを手本にすることができます。かれのことばですが、理論は船長であり、実践は兵士です。実践的に考えるという観点をみずからのものとすることなしに、実践家であろうとする人は、コンパスなしで船に乗る人と同じです。その人はふさわしく舵をとることができません。ゲーテは、くりかえし、かれの実践的な考え方から、このことを示しています。まさに学者は、非実践的に考えるゆえ、非生産的な重箱のすみつつきをするに至ります。外の世を原子に還元する人がいますし、運動に還元する人がいます。さらに、その運動を否定する人もいます。それに対して、実践的に考える人は、このことを指し示します。単純さは、世界観の大いさから出てきます。それは、どこまでも的を射たことであり、ことばです。そして、わたしたちはゲーテのこういうことばも迎えてみることができます。

 

敵は目を光らせていよう。

静かに、黙っているのだ。

そして、やつらが動きを香むなら、

その鼻先をかすめてやれ。

 

(訳 鈴木一博)