略伝自由の哲学 · 16日 8月 2018
略伝更新です♪♪「考えるを見る」ことがさながらお天道様のごとくであり、わたしが目覚めるにおいて天に明るみ、わたしが目覚めているにおいて天から照らしつつ、「どこにでもついてまわる」。こんなにも親しく近すぎるからこそ、なかなかその恩恵に預かれないのも灯台下暗しということなのでしょうか。日々少しづつ親しくなっていきたいものです。
略伝自由の哲学 · 15日 8月 2018
略伝カムバック!!長らく更新できていず失礼しました。副業が忙しすぎて気づいたら立秋です(汗)秋限定ビールも販売です^^「さしあたり、わたしにとって」という慎ましいことば。この秋の端緒にふさわしい気分な気がしてなりません。ここからは頻繁に更新していきますので引き続きよろしくお願いいたします。
略伝自由の哲学 · 13日 6月 2018
略伝自由の哲学更新です! 10代から20代にかけて、世の中と噛み合えていないという、立つ瀬ない状況に苛まれていたんですが、その立つ瀬なさから、ちょっとづつ世の中と噛み合えるようになってきたのは、まさにこの視点。通例の見るでない考えるを見るというところから、その立ち位置から普段の世の中はどう見えるのかということを重ねることで、少しずつ噛み合ってここまで来ました。なかなかこの「考える」というところは直視することを忌み嫌われますが、だいたいそういったことが大きな助けになったりするものですよね。
略伝自由の哲学 · 28日 5月 2018
 いやいや大変ご無沙汰してしまいました。5月も終盤ですが、第三章も終盤へ向かっていきます。八木重吉の詩がこれからの季節に向けて素敵な予感を誘ってくれています。
略伝自由の哲学 · 20日 4月 2018
 自我ということばがありますが、そもそもこのことばで何が言われているのか。こうやってものを言っている私自身のことでもありますし、読んでいただいているあなた自身のことでもあります。このひとり一人自身のこと。日々あたりまえにあるわたしのことを「自我」と呼んであつかう。あまり親切とは言え無いないですよね。ここでは「考える」ということが近代的自我と呼ばれるものの生みの親デカルト、パスカル、ジャン・パウル、鈴木さん自身のことばをかりてとても親しく親身に語れれています。なにせ「考える」は日々誰しもが恩恵に預かる親しいものでもあります。そしてこの「考える」が何故かわたしというものに起こってしまう。この大いなる謎に相対する。こういうテキストがきっかけになってご自身の「考える」に思いを寄せてもらえると嬉しいです。
略伝自由の哲学 · 05日 4月 2018
「考えるプロセスに重なる、見通しのきく明らかさは、考えるの生理基盤についての、わたしたちの知識に、まったく左右されない。」「人は考えるについて語ることができる。しかも、すぐさま脳生理学とかちあうには及ばずにである。」  「考える」を突き詰めて考えてみると、今をときめく脳科学を介在させなくとも語ることができる。いわゆる今の科学の前に、その科学と同じ手法で、科学を成り立たせているそものそもの「考える」ということにせまります。
略伝自由の哲学 · 03日 4月 2018
 「考える」ということは、ビジネスや自己啓発的な世界ではとても重要視されてはいますが、ここで言われている「考える」の視点に立っているものいいは広く見渡してもほとんど見かけられません。考えることが重要と言っている人も、このユニークな立ち位置にたっての物言いはありません。「考える」がなによりも自分に親しく、親しい働きであること。まさに自分自身そのものの働きであること。近すぎるゆえに見づらい。でもこの親しみや親しさという点から誰でも迫れますし、今の人のひとり一人の物言いの中にはこの親しさ、近しさがとても一般的になってきています。自分から遠くきらびやかな世界も悪くないですが、自分に親しい、近しいもの、当たり前のものへの視点が、今まで以上に高まってきている気がします。
略伝自由の哲学 · 24日 3月 2018
 「考える」というごく当たり前のことを薄皮を一枚一枚はぐように丁寧に見ていきます。要になってくるのはいつも何かの対象について考えているという通常のやり方ではなく、その何かではなく考えている「考える」自身に、何かについて考えるという当たり前のことを引き起こしている「考える」そのものにフォーカスを当てていくことになります。  鈴木さんの文章には多々引用が入りますが、今回の井上八千代さんの引用も、世界のどこでも真摯に何かに取り組んでいる人は同じところに行きつく。エキセントリックに取られたくないですが目には見えないところのリアリティーを突き詰めつ感じに胸が高まります。
略伝自由の哲学 · 26日 2月 2018
 まとめて3つアップデートで第三章②完了!略伝とは、「自由の哲学」を簡略に述べて伝えるというところと、鈴木さん自身が「自由の哲学」を楽譜としてどお奏でているのかというところの略伝でもあります。そして読みての略伝を、読み手自身のサウンドを期待する想いも含まれていると思います。  全ての学びはお稽古事で、学びは知を恵みに変える稽古です。  その恵は如実に人その人に宿っているし現れています。私が飲み会のような語らいの場が好きなのはその人の恵がかなでるものを交わす場だからなんだなぁと思います。本に書いているような、何かの解説のようなアントロの話とかって、繰り返し聞くとすると聴いていても楽しいものではないですよね。その人ならではのものが出てくること、そしてそれが見もの聴きものになって欲しい。意外な人から意外な話が聞けるときの喜びってその人の略伝を聴いたって感じだなぁ。  なにはさておき意識の極みなところですので痛々しい部分もあるかと思いますが、共に耳をかたむけてもらえると嬉しいです。
略伝自由の哲学 · 26日 2月 2018
 さらに次の段です。...

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