略伝自由の哲学

略伝自由の哲学 · 17日 1月 2018
「なんとも、大いなることが、あたかもさらりと述べられています。」鈴木さんのテキストに120%同意です^^ 一冊の本にする必要があるのでそれなりに簡潔に述べる必要があるのですが、ぐわぁーって感じですね。簡潔に述べられると。 宗教、芸術、科学が同じ目標を追う。わたしたちとの世の間に橋をかけようと。 それぞれがそれぞれなりに橋を渡そうとしている。 やっぱりさらっと大いなることを語ってしまいますね。。。
略伝自由の哲学 · 14日 1月 2018
「わたしたちが世のかたわれであり、わたしたちと世に絆があり、わたしたちがまるまるひとつの外ならぬ内なる者であるとの情だ」。昨年話題になった「この世界の片隅に」のテーマとシンクロするところです。大きな世界とその片隅のわたしの仕切りをどこに立てるか。こういった具体的なところは8章以降に譲りますが、タネとしてわたしに植え付けられますし、意識の上でどこに自分を置くか。世界とわたしの仕切りをどこに引くか。はてしなさと親密さが一緒にやってくるような、個人的にはいつもこういうところで呆然と立ち尽くすような心持ちになります。
略伝自由の哲学 · 07日 1月 2018
 シュタイナーを読めば読むほど、数行読んであぽーんと無重力空間に突き放されるようなフレーズにぶつかります。ここの、「わたしたちは、わたしたちを、ひとり立ちの者として起こし、世に対し合わせる」。この一文がどーんとこころに響くとひとまず読みを辞めて1日くらい寝かしたくなります。そんな段落ですが鈴木さんのひとりの人に引き寄せたところからの語りから遠くに行ってしまったわたしを日常に引き戻してくれます。シュタイナーはこの行きつ戻りつがとても大事だなぁと思います。
略伝自由の哲学 · 25日 12月 2017
 はじめの段から引きます。 ひともとの木を、ふたたび見やる。ひとたびは枝が憩い、ひとたびは枝が揺らぐのを、目にする。わたしたちは、その見てとるをもっては、満ちたりない。
略伝自由の哲学 · 25日 12月 2017
 はじめの章を受けて、この二つ目の章は「知識もといへの基のもよおし」と題されます。
略伝自由の哲学 · 22日 12月 2017
 ここにおいて、すなわち、ういういしいこころにおいて、いまひとたび、はじまりの問いを据えてみましょう。 人は考えると振る舞うにおいて精神の自由な者であるか、それとも、ただの自然法則の、かたくなな必然に強いられつつであるか。
略伝自由の哲学 · 17日 12月 2017
 さて、「選ぶ」に、あらためて意識を向けます。たとえば、ここまで読んできた人なら、これを読むことを選んでいるはずです。そのことを振り返ってみるとして、どうでしょうか。さらには、そのつどしているはずの「選ぶ」を振り返ってみるとして、いかがでしょうか。
略伝自由の哲学 · 17日 12月 2017
 ここまでを、いまひとたび振り返ります。シュトラウス、スペンサー、スピノザ、ハルトマン、ハマリング、レ、ヘーゲルと、七人の説が引かれることで、選ぶ、求める、欲する、質、考え、想い、知っていることに、光が当たりました。
略伝自由の哲学 · 12日 12月 2017
 では、はじまりの問いにおける「精神の自由」は、どうでしょうか。  そもそも、「ただの自然法則」というのは、ただの考えです。そのただの考えをはじめ、もろもろの考え、想い、知識が、人を縛りもします。
略伝自由の哲学 · 05日 12月 2017
加えて、ハルトマンの説が引かれ、人の「質(たち)」に光が当たります。人は、それぞれに想いを抱く。それぞれの想いから、それぞれの振る舞いをする。

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