2017年の12月から足掛け1年10ヶ月でようやく鈴木さんの2000年代の略伝自由の哲学の連載を全てWebに投稿が完了となりました。既にお知らせ済みですが第十四章と「つまりの問い」の二つの章も略伝を書いていただくことを快く承諾していただいておりますので、近い将来そちらも投稿予定です。略伝の次は「人と世を知るということ − テオゾフィー −」のオンデマンド出版に取り掛かります。引き続きよろしくお願いいたします。
こうすべしという表明は他者や自身のひとりの人としての可能性を見出していない。この現代的な課題は、特に本人自身に自分のひとりの可能性を見出す培いがなされていないことなんのではないかなと、十三章の略伝を読みながら想うとこです。
「おそらく1970年代の終わりごろから、私たちは互いを「何を買ったか」という、消費における商品名=記号で認識するようになった。認識というより値踏みと呼んだほうが正確かもしれない。しかしそれ,は生活とは次元が異なるものだ。私たちが「生きている!」という実感は、記号にではなく、生活者としての日々のなかにある。記号は他のものに置き換え可能だが、地に足のついた生活は交換できない。」江弘毅『街場の大阪論』(バジリコ)を評した永江朗による書評(『週刊現代』2009年4月11日号)
「生きるの楽の値は、二つのフアクターによって定まります。ひとつに、楽の量であり、もうひとつに、生きるにとっての必要をどういうスパンで括りとるか、言い換えれば、もよおしが強く、しぶといか、弱く、一時かぎりであるかです。(それにつけても、いまの商品の多くは、なんとも刹那的な欲をかきたてることでしょうか。青臭いことを言うようですが、もっと青臭く言うと、刹那的な欲を書き立てないと商売がなりたたないのは、なぜなのでしょうか。)」
メモメモ!!「考えは考えるから生じます(ことに三の章)。そして、ただの考えがリアルでないように、ただの覚えもリアルではありませんに(ことに四の章)。リアリティ、すなわち、ものごとは考えと覚えの重なり合いにおいて生じます(ことに五の章)。さらに想いが生じるのも、その重なり合いからからであり、さらにまたその想いをもって思うことがなされます(ことに六の章)。」
説教くさい人がテーマ!?ほんとそういう人はどうぞご勝手にですよね。人がどのように感じるかまでに口出しをするのはルール違反です。その人にとっての生きる値はその人にとっての値で他の人がとやかく言えるようなものではないです。といいつつかなり説教くさい自分に反省^^;
こう詳らかに説明されると名高いショーペンハウワーや「自由の哲学」では常連のハルトマンの考えがとても稚拙であることがわかります。普通に生きていれば誰しももっている、願いを糧に勤しむ充実感。こんなふつうな満たされる気持ちがないがしろにされています。世の中ってまだまだ普通の人の普通のことが顧みられていないものですね。
さぁ略伝最後の章、第十三章に突入です!!(当時の略伝連載では13章までで終了。現在鈴木さんに14章ともうひとつの最後の章の略伝執筆依頼しています!)人の生きるは、生きるに値するかというこれまたアクチュアルな今時な問いではないでしょうか?
先回の最後の引用と今回の最初の引用も強く響く内容です。
「 そもそも、みずからに意識的であるひとりひとりが科学を進化させてきたのであり、科学とふさわしく向き合うことができるのは、言い換えれば、科学を信じるとか、絶対のものとして担ぎ上げるとかではなく、世のもろもろを知ろうとする現代の、ひとりひとりの人の行ないとして迎えることができるのは、まさにみずからに意識的であるひとりひとりにほかなりません。」