略伝自由の哲学

略伝自由の哲学 · 09日 12月 2018
「自由の哲学」のユニークさというか大きな壁のひとつである、「考える」や考えることで捉える「考え」がともに葉っぱや花びらとかわらない世界の現れのひとつだというところです。勝手気ままに考えられるようになった分、その勝手気ままさを私たちの態度でなく「考える」や「考え」のほうにまでお仕着せいます。勝手気ままさのアクティビティーをさらに推し進めて「考える」や「考え」のリアリティーに目を覚ます時代が少しづづやってきています。
略伝自由の哲学 · 05日 12月 2018
五章a−2。昨年再版の際にタイトルを「自由の哲学」から「自由を考える」へと変えたのですが、この段でも出てくる覚えや想いに介在する「考える」ということ。このことを知ること、捉えることのがこの本の読みの捗りの大きなメルクマールになります。「自らを差し置く」。今の時代よくよく考えられてほしいことだなと思いました。
略伝自由の哲学 · 01日 12月 2018
第五章始まりです。第四章で見抜いた想念論のほころびを丁寧に追います。哲学の話となっていますが、想念論はまさに現代的なとても今な課題として私たちの日々にあります。そして想念論者から想念主義者になってしまうプロセスは、○○主義者の作られ方として様々なイズムに行き渡っています。こういうところを見抜くのは普通の人生にとっても大いに大事ではないでしょうか。
略伝自由の哲学 · 21日 11月 2018
略伝更新です!第四章も大円団です。長かった重かった。さすが物理的な世界を相手にする章だけあって、第三章の発想の転換というか勘所が大事なところと違って、読解に体力のいる章だと思います。最後で鈴木さんの要約が、あ〜っとわかっている人と分かっていない人(わたくしです)の違いを見せつけられます。。。精進あるのみですね^^;
略伝自由の哲学 · 15日 11月 2018
前の回に取り上げた段では、ものごと(または世、または世界)がわたしたちの想いであり、ものごとそのものをわたしたちは知ることができないという、カントにはじまって、科学(ないし学識、ないし知識)、とりわけ自然科学と歩みをともにしながら近代をリードしてきた考え方が、それとして、ひととおり述べられました。この回に取り上げる段(二十六から二十八)では、その考え方を調べてみることが、繰り返しなされます。めんどうでも、どうぞ、おつきあいください。つきあっただけのことは、きっと、あります。
略伝自由の哲学 · 12日 11月 2018
第四章を略伝の更新作業で日々、改めて読んでいて、まさに現代の、21世紀の今の課題なんだよなと。まさに今の課題ですから、人にはよりますがまぁしんどい読みになります。おまけのように柳田國男と市川浩両先生のテキストが骨休めになります。
略伝自由の哲学 · 12日 11月 2018
 さきの回に続けて、この回は四の章の二十二の段を取り上げることにします。すなわち、こうあります。...
略伝自由の哲学 · 09日 11月 2018
 前の回を引き継ぎます。象、像、様、絵などを意味する Bild...
略伝自由の哲学 · 06日 11月 2018
まだ確かに見てとっていない、茫漠としている対象。そこからわたしがわたしから迫っていって、見て取ることになります。見ている対象と見てとるわたし。この見てとるわたしが、見て取られるほどアクティビティを発揮していない只中が、今の時代といっても良いかもしれません。どっちつかずの只中で、葛藤する。自らのアクティビティーに目覚めてひとまわり大きいパースペクティブを得たいところです。
略伝自由の哲学 · 05日 11月 2018
今回の略伝はことばの遣い方についてのことが述べられています。シュタイナー自身が「覚え」の遣い方を述べてるということもありますが、そもそも鈴木さんがシュタイナーを訳する時の大きなモチーフでもあります。 この章の冒頭に「考えがなんであるかはことばで言うことができない」と出てきますが、ことばがどう考えを指し示すか。まさにことば遣いが問われるところとなります。

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